最新情報をCHECK!! 

【涙】妻が末期癌で余命宣告された。妻「お願い…もう無理…今生きる意味は何が在るの?」自分「僕や子供にとっては、世界で一番大切な存在なんだ」

コメント(13)

人気のおすすめ記事

【涙】妻が末期癌で余命宣告された。妻「お願い…もう無理…今生きる意味は何が在るの?」自分「僕や子供にとっては、世界で一番大切な存在なんだ」

abf6d2ce4d11abd211c202efec5544df

334: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 20:31:03

自分語りスマソ。 
話の始めはスレ違いに思えるかも知れないが吐き出させてくれ。 
10年前の春、私(♂)夫婦と同居している私実両親のうち、母が3年の闘病の末亡くなった。 
俺様な父は自分の妻の葬儀にも喪主を私にマル投げ、面倒なことは全て私と妻がやり終えた。 
居なくなった母の家庭内での役割を出来るだけ私達夫婦で分担したつもりだが、 
私には仕事もあるので、夕飯時などは妻が家事を一人でこなしていた。 
父は止める母が居なくなったのを良いことに朝昼晩と酒を絶やさなくなった。 

後から判ったことだが、どうやらその頃から、舅の嫁イビリが在った模様だ。
妻は、当時独立してまもなく自営業を軌道に乗せようと
一生懸命になっていた私に心配を掛けまいとしていたらしい…
母が春に亡くなり、その夏、妻の身体に異変が起きた。
末期の癌であり、早くて3ヶ月、もって半年だと言う。
長くなるので、分けて書きます。
335: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 20:42:01
余命宣告に目の前が真っ暗になった。
まだ子供は小学2年生、
それも少し前まで可愛がってくれていた祖母を亡くした哀しみを
何とか乗り越えたところだと言うのに…
当時サラリーマンから転進して自営を始めて間もない私は、
勤め当時とは比較にならない収入を上げられるところまで頑張れたのも、
妻との未来を想定してのことだったのに…
若い妻の生きたい、と言う力を信じて、手術が行われた。
切除した部位により、もう息子は兄弟を持つ望みが無くなった。
外科手術、その後の化学療法、掛かる費用は尋常ではなくなっていた。
簡保などでは到底追いつくはずも無く、あれが勤めの頃なら、
経済的に破綻していたに違いない、と確信できる。
一旦退院できるまでに奇跡的に回復し、
定期的な通院による化学療法を受けることとなった。
しかし、その副作用は当人以外には想像出来ないほどのダメージを与えるものだった。
337: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 20:57:25
妻は、自慢の髪が殆ど抜けてしまったとき、さめざめと泣いた。
私は、ただ抱きしめてあげるしか出来なかった。
自分は、もしかしたら、病気以外の苦しみを更に与えてしまっただけではないのか、と。
しかし妻は、母親の大好きな息子に、苦しむ姿を見せることが無かった。
それでも、化学療法は通院と言えど、2週休んで2週入院、と言う半入院生活。
病院に居るときには父が孫の世話をする日が続いた。
それが後々、とんでもない間違いだった、と言うことになるのである。
一年後、1回目の手術で取りきれなかった部位の切除の為、2度目の手術を行った。
1回目に当てに出来た医療保険は、2回目のときには何処にもそっぽを向かれた。
全て自費、である。高額医療費貸付制度なども最大限利用して
日々の暮らしを頑張っては見たものの、
目に見えるほどではないが、ジリジリと財政が危なくなるような悪い予感がした。
2回目の手術を終え、定期的な通院による化学療法をひと段落終え、
自宅での生活が始まった。
息子は中学受験を目指すことを申告してきた。
母の病気を治す医者になる、と。
336: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 20:56:34
思う存分書きな。
339: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 21:21:44
>>336
ありがとう。
もともとお手伝いさんが居るほどの大きな家で幼少を過ごした父は、
戦争で何もかも失って孤児院に行くことを余儀なくされた人だった。
それゆえ父は、生来のお坊ちゃんならではの我侭と、
戦争孤児により世を恨む虚無主義とが混在している、
実に難しい老人になっていた。
そんな父に、妻が入院中、息子が情緒を育まなくてはならないときに、
父が孫に吹き込んだ思想、
「どんなときでも自分以外は信用するな」所詮この世は苦しいことだらけ、
と言う考え方は、後々息子の思考パターンを支配してゆくことになる。
通院とはいえ、化学療法はやはり患者自身にとっては辛い。
全身を襲う倦怠感、それにより家事も侭ならぬことが多くなってきた。
私も出来るだけ家事に関わり、時間の許す限り手伝ったが、
生前の母のような世話が息子の私に出来る訳も無く、
父は酔っては文句を言うようになって来た。
「もう退院してるんだから、家事をちゃんとやって貰わんと困る」
癌が完治した訳でも無く、病を抱えて、妻は気丈に頑張ったが、
ある日、亡き母に託されていたことを僕の居ない間の夕食時に妻が父に言った
「お義父さん、お酒は控えましょうね。お義母さんにも言われていたのでお伝えしますよ。」
そうすると父は逆上し、
「やっとブレーキが亡くなって好きなだけ飲めると思ったのに、何でそんな事云うんじゃ!
お前の顔見取ったら酒が不味くなるから、二階に上がって貰ってエエ」
と。
そう云われたことがきっかけに、妻は鬱になった。
2回の寝室に引きこもりがちになり、笑顔が減った。
338: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 21:17:32
>そっぽを向かれた
人の命を粗末にしようとする保険会社の名前を出してください
341: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/19(火) 21:52:24
>>338
癌の治療についての保障はしない、と言う名目でした。
何とか中学受験を突破した息子は、
誰よりも強いモチベーションがある、と信じていた。
しかし、後にも述べるが、優しい心の持ち主だった息子は、
ずるさを身に着けてしまった。
引きこもりがちになった妻に、
父の容赦ない言葉の暴力が降りかかるようになった。
「何もせんのは、甘えているだけと違うのか」
私は当然抗議した。貴方は現状を理解できないのか、と。そうすると、
「ワシは不幸じゃの。親にも捨てられ、妻にも先立たれ、今度は嫁にも見捨てられ、
嗚呼、この世は憎い、ワシはこの世で一番不幸じゃ。」
こちらの話を聞こうともしないで、自室に戻り、寝る。
そんな日々が続いた。出来るだけ息子の目には触れないように配慮したが、
父は、孫と二人のときに、かなり刷り込んだらしい。
「ワシは父に捨てられたようなもの。
オマエの父親もそのうちお前を見捨てるかも知れんぞ。
所詮この世で信じられるのは自分だけ。よく覚えておけ。」
父は自分の手を汚すことを是としない人で、
掃除、洗濯、調理買い物と、家事の殆どを私がすることになった。
それでも妻の手をとって一緒に父不在時の折には
居間で楽しい時間を演出するように心掛けていた。
どうやら、父には、「彼女」と呼べる女性が外部に居るようである。
そうこうして数年が経った。
余命長くて半年、と言われてから6年が経っていた。
私は、病院治療のほかに出来ることは無いか、と、
心もとない英語力を生かして薬事法の所為で国内正規販売できないハーブティーの個人輸入をして
妻にそれを飲んでもらったりして、この数年間は、
マーカー値も安定して、今思えばまるで夢のようだった。
しかし、病魔はそれを許さず、確実に進行していたのだった。
350: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 19:14:45
妻が亡くなって、もう2年半経つのに、まだジタバタしています。
それでも子供は大きくなって行き、父は年老いて行きます。
毎日が進んでいくのです。
僕が凹みきって、歩みを止めてしまえば、全てが終わってしまう。
このおよそ900日弱で、何が変わったといえるのか…
それは、逢いたい妻はもう居ない、逢えない、ということ。
何とか子供が成人するまでは、と、それが妻との約束だ、
と思って頑張っているつもり。
思い出して、くじけそうになり、
みっともないところを吐き出してしまうかもしれませんが、
どうか許してください。
351: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 19:31:49
化学療法を5年続けた妻は、疲れきっていた。
息子の成長だけが、妻の気持ちを支えていた、と言えた。
その5年の間に、何度も妻が訴えた。
「お願いだから、もう無理」
「このまま少しずつ弱っていくだけなら、今生きる意味は何が在るの?」
泣きながら訴える妻に、僕はまるで壊れたおもちゃのように、繰り返すしかなかった。
「それでも僕や子供にとっては、世界で一番大切な存在なんだ。
子供にとっては、今父親よりも、母親の方がずっとずっと必要なんだよ。」
また時には、掛ける言葉もなく、僕もただ泣きながら抱きしめるしかなかったときも数多在った。
そんな状態でも、してもらえないことに対する不満が絶えず父から僕たち夫婦に投げつけられた。
「今出来ないことがどうしてもある。我慢して欲しい。」と言っても、
父は、「それならワシは、お前らの足手まといだと言うのだな。消えて欲しいと思ってるんだな。」
とすぐに極論に走る。
そんな折、妻の実家の母親(義父は僕たちの結婚の翌年に亡くなっていた)の癌が発見された。
妻と同じ部位の罹患、ストマとウロストミの装着と相成ってしまった。
妻には兄が一人居るのだが、そのアニも糖尿から網膜症、失職して破産手続き、生活保護の対象となっていた。
義母は義父の遺族年金で何とか暮らしていけたが、
それでも足りないところは、僕が補わなくてはならない。
今もそうだが、内憂外患、満身創痍の状態だ、と認識するのに、
そう時間は掛からなかった。
353: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 19:58:04
経済的には、表向きは何とも無いように振舞っていた。
特に子供には、財政が切迫していることを悟られぬように頑張った。
まだ僕の母が元気だった頃、母の悲願であった「持ち家」をもつこと、
そうすることで親孝行をしたい、と思った僕は、
30歳になったばかりだったが、勤めから独立をして、
25年のローンで土地を買い、小さいながらも家を建てた。
そのローンだけでも月に8万強、ボーナス時には40万弱の支払いが毎年発生する。
事業を起こしたばかりの初めの数年は、
それでも幸先良いスタートを幸運にも切れたようなので、
息子を中高一貫校にも進学させてやれたし、
母がずっと気にしていたお墓も購入できた。
しかし、妻の治療には、サラリーマンの平均月収くらいの額が平気で掛かってしまう。
前述のように保険が使えない。国保の制度で一番安く上げようとしても、
それでも10万以上のお金が毎月治療費として出て行くことに。
それでも、自営業者になったのは、妻の治療費を払う為だったんだ、
と自分を納得させながらの日々が続いた。
ふと足を止めようものなら、
そのままヘナヘナとなってしまいそうな自分を奮い立たせることで精一杯だった。
気が付いたら、僕は糖尿になっていた。
因果関係もはっきりしないが、EDにもなっていた。
若いときの交通事故で、肝臓障害の残る僕は、
自分が医者に行くことも侭ならなかった。
朝5時に起きて子供の弁当、そして父と妻と息子の朝食を作り、
洗濯と買い物、身体が痛む妻の身体をさすり、入浴介助をし、部屋の掃除の後、昼食を準備し、
昼食を取らせている間に夕食準備をし、その後仕事に出掛け帰ったら、
山のように積んである洗い物をし、妻の様子を見、会話をして自分が寝るのは
夜の2時を過ぎないことがなかった。
僕はそれでも、妻に生きがいを持ち続けて欲しかった。
355: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 20:34:51
妻は通院治療を止めた。
僕はせめて、「フローエッセンス」だけは飲んで欲しい」と頼んだ。
不味いハーブティーだが、それはしぶしぶ承諾してくれた。
僕は毎日、それを煎じて作り、毎日それを飲んでもらった。
日常的には、今までと余り変わらぬように思った。
脱毛した頭髪も復活し、妻はことのほか喜んだ。
そして抗癌剤の副作用から解き放たれた妻は、
少しずつではあるが笑顔を取り戻すようになっていた。
そんな日々が一年ほど続いた。
子供は医者になるべく勉学に勤しみ、
成績もそれなりのものを持ち帰ったりしていた。
ただ、家族と言う点での家事への協力は不十分だったが。
僕はこのまま、妻の病状が治癒まで行かずとも固定してくれれば、
などという幻想に似た希望を持つようになっていた。
相変わらず毒を吐く父に対しても、特に何も出来ずにいた。
スルー以外の余裕がなかったと言えば言い訳になるのかも知れないが。
そんな、今思えば根拠のない、甘い夢を見ていたときはすぐに終わりを迎えた。
そう、僕はその時点でもまだ、情けない話、覚悟すら出来ていなかったのである。
2008年を迎えた冬のある夜、妻が暗い顔で僕に告げた。
「ストマから出ていた便が出なくなった。
かわりに、奥で閉じたはずの膣から便が出ている。」と。
とうとう恐れていたことが起こった。病気は確実に進行していたのである。
356: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 20:48:12
ここからは、本当に辛い思い出を書くことになります。
もしかすると、キーを打つ手が鈍ることもきっとある、と思います。
そんな時もどうかご容赦を戴きたい、と思います。
あの表面上は平穏な日々が続くかもしれない、などという幻想は、
一瞬にして断ち切られることになった。
つまり、本来の出口でないところから便が出る、と言うことは、
腸が破れてしまっている、と言うこと、そして閉じた膣奥が開いてしまった、
と言うことなのだから。
頻繁に腹痛を訴える妻は、それでも救急車を呼ぶことを拒んだ。
まるで押し問答のような日々、そう長くはなかったが、
最後は余りの痛さに救急車を呼ぶ事を承諾してもらった。
「な、病院で痛みを取って貰おう。そうしたら、またきっと笑えるようになるよ。」
僕も息子も、半分泣きながらではあったが、妻を精一杯元気付けようと一生懸命だった。
痛さの余りにショック状態の妻。
平日の夜中の救急で指定された病院へ付き添う。
思えば、妻が自宅に戻ることは、それ以来もうなかったのである。
357: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 20:59:12
妻が搬送されたときに着用していたTシャツなどは、
病院での着衣に着替える為に、鋏などで裁断されたのだが、
僕は未だに、それらが捨てられずに居る。
気持ちの悪い奴だ、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、
どうしても出来ないのだ。
救急で搬送された病院で、落ち着いて眠りについた妻と処置室で一夜を明かし、
翌朝、以前化学療法を施してくれていた総合病院へと救急車で運ばれてゆく妻。
救急車には妻に付き添う息子が乗っている。
僕は、その救急車を見送るときに、付いて行くための自分の車に乗り込んだ瞬間、
溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。
声を上げて号泣した。何度も妻の名を呼んだ。
何も事態は変わらないのに。
妻の、延命ではなく、終末緩和医療が始まった。
とにかく優先するのは妻の苦痛を最大限に和らげること。
はるか昔に、妻と二人で、そのときを想定すらしていないときに二人で決めた約束事。
最期は、眠るように、と言うこと。
とうとうそのときがやってきたのだ。
それでも僕は、まだ覚悟なんてこれっぽっちも出来ていなかった。
ヘタレの極致、ですよね。 
362: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/20(水) 21:41:57
この話ももう少しで終わります。
今日はもう事務所を出て、家事をしに帰らなければなりません。
さっきの書き込みの後、歳甲斐もなく泣いてしまっていました。
明日で終わりにします。
ですので、もう少し、ご辛抱を賜りたいと存じます。
おやすみなさい。
370: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 11:06:58
ジジイの悪影響受けたっつー息子の伏線がウザイっちゃあウザイがな…早く続きヨロ
371: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 15:34:24
応援して下さる方々、有難うございます。
妻の終末医療が始まった。
搬送されたときのショック症状も和らぎ、安静にして眠っている状態。
担当医の意見では、
「腸間膜に豆が撒かれているように一杯転移している。
手術などで取りきれるようなものでは既にない。
それが腸へ栄養を運ぶ血管を圧迫して塞いでいる状態。
遠からず腸が機能しなくなって、
恐らくはそれが原因となる」とのこと。
一月持てば良いほうだそうだ。
それでも覚悟の出来ない自分。

しかしそれよりも、妻との約束で僕は頭が一杯だった。
「苦痛だけでも取って頂ける方法というのは在るのでしょうか?」と尋ねると、
「もう、小腸から先は機能していないと思われますので、何も食べられないし、飲めません。
点滴で維持するのみですが、それでも段々と弱って来るでしょう。
苦痛の方ですが、痛みについては、モルヒネなどのパッチや点滴を使うことにより和らぐものと思います。
ただ、どうしても痛むようでしたら、そのときは最後の手段として、
ドルミカムを使って意識レベルを下げる方法があります。
ただ、そうなると、もうずっと眠っていることになりますから、
お話も出来なくなります。」とのこと。
…妻との約束、それにはこの方法しかないということらしい。
必ずやって来るお別れに対して、カウントダウンが始まった。
僕たち家族の時間はどんどん減っていくのみだ。
373: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 16:01:54
苦痛の取れた妻は、最初はまるで今までと変わらぬ様子だった。
しかし、排便排尿の必要もない妻は、
もうそれからベッドに寝たきりになってしまった。
元々体格の良かった妻は、そのときにはもう手足が萎えてしまい、
自分で上体を起こすのが精一杯だった。
僕は毎日、出勤前と帰宅前には病院に寄り、
土日祝日はそれこそ一日中、妻の傍にいた。
時折、家事をしに帰らねばならなかったが、車で5分ほどのところであり、
息子も、学校帰りには帰宅前に立ち寄ることが日常となっていた。
父は相変わらず、というか、前にも増して酒を飲むようになっていた。
病室で妻の身体を拭いたり、髪を洗ってあげることに僕は喜びを感じていた。
やがて確実に来る別れを、僕たちは意識的に話題にしないでいた。
他愛もない世間話や、世間ではこんなことがあったよねえ、なんて、
まるでお茶の間での話のように、なるべく僕たちは笑って日々を過ごしていた。
時折来る痛みを訴えれば、僕がすぐにナースコールを押して、鎮痛剤を注射してもらったり、
手足にダルさを感じればさすってあげたり、今思えば、すごく凝縮された日々だったと思う。 
374: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 16:04:00
内憂外患、と依然述べたが、そのうちの一つが義実家だった。
妻の母親も、無事に手術を終え、
今では自宅に戻って普通に生活しているとのことで、
僕は義母に面会に来てくれるようにお願いしてみた。
いつどうなってもおかしくない妻の状態では、
話が出来るうちに逢って貰っていた方が良い、と思ったからである。
しかし電話でのお願いに、妻の母親はそれを断ってきた。
「そんな状態の娘を見たら、私が落ち込んでしまうから」との理由で。
僕は親子ってそんなものなのか?という疑問を抑えて、了解した。
しかしその翌日に、義兄から電話が掛かってきた。
「こんな状態の母親になんと言うことを持ちかけるのか?
それで体調を崩したらどうしてくれる?
俺にはもう肉親は母親しかいないのだから、
もしこれで母親がどうかしてしまったら、
俺は一人になってしまうではないか!」
と、激昂した口調での電話だった。僕は感情を抑えて話した。
「もう妻と会話できる機会がなくなるかもしれません。
何か方法は無いでしょうか?」と。
義兄は、「もうお前のところに嫁にやったのだから、
うちの姓(旧姓)ではなくなっているんだし、
そっちはそっちでやってくれ。こっちも大変なんだから。」と言われてまでは、
こちらも食い下がる訳にはいかなかった。
結局、義母は、葬儀の日まで来ることはなかった。
義兄はこの日以来、僕のことを好ましく思わないようになった。

375: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 16:18:18
自分の親兄弟が来ないことを知った妻は、少し寂しそうな顔をしながらも笑顔で云った。
「みんなそれぞれ大変だもんね。一つお願いしても良いかな?」と。
妻の提案とは、ビデオレターを撮ることだった。
体調の良いときを選んで、自分の実家関係の世話になった人、そして昔からの友人達、
もう逢って話が出来ないだろうという人に対して、それぞれ短いながらも妻はメッセージを残した。
「何もかもが済んだら、それぞれ分けてあげてね」と。
撮るときには、最後お互いが泣いてしまうようなときも在ったが、
それでも必ず、有難う、と言う言葉があった。
父にはビデオレターは当然、無かったが、それは僕に対しても同じく、無かった。
しかし、息子に或る物を残したい、と妻は云った。
「あの子が二十歳になったら、これを見せてね。」と妻は、
成人式を迎えたであろう息子を想定してビデオレターを撮った。
「二十歳になった○○(息子の名)へ。
どんな大人になってるのかなあ?目標には届いていますか?
人の気持ちのわかる、いい人になってると良いなあ。
そして良い彼女がいて、良いときを過ごしていたら良いなあ。
お母さんはずっと見させてもらっているからね。
じゃあね。」
…だめだ、泣けてきた。チョット仕事落ちします。
ごめんなさい。
376: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 21:03:54
 少し落ち着いたので、吐き出してしまいます。
搬送されたときには、10日以内に来るべきときが来る、
と言われていたにもかかわらず、
妻はとても頑張ってくれた。
痛みを和らげるパッチの数も増えていったけれども、
その恐怖を口にすることはとうとう無かった。
その意味では僕より遥かに潔く男前だったかも知れない。
僕には出来ないかも知れないからだ。
しかし日に日に痛みが増していく。とうとう決断のときが来たようだ。
気が付けば搬送されてから40日が経っていた。
そして投薬開始の日。ちょうどそのときは僕は仕事を抜けられなかった。
付き添っていたのは息子だった。二人はたくさん話が出来たようだ。
「おやすみなさい」と二人は会話を締めくくったらしい。
その日、僕には妻からメールが来た。
もう携帯すら持てなくなっていた妻は、
口述で息子に僕宛のメールを打たせたらしい。
「私は眠ってしまいますけど、毎日逢いに来て下さい。
寝てしまってちゃんと相手が出来ないかもしれませんが、
眠っていても私はわかっていますからね。
おやすみなさい○○(僕の名)さん。愛しています。」
僕は不覚にも、職場で携帯を握り締めて嗚咽してしまった。
377: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 21:31:53
その夜、仕事が終わって、まっすぐ病室に向かうと、妻は穏やかに眠っていた。
今にも目を開けて「お疲れさん、お帰り」なんて云いそうな感じで。
しかし、妻が眠りから覚めることはもう無いのだ。
意識レベルを下げる、と言うことは、
痛みを感じにくくなっているかもしれないが、
同時に、痛くて苦しくても、それを訴えることも出来ないのだ、
と言うことを意味した。
僕のこれからの仕事は、妻を快適に眠らせることだった。
一定の時間が来たら、姿勢を変えてやる。
チョットやそっとでは起きないらしいので。
床ずれを出来るだけ防ぐには、それしかないそうだ。
母のときに、床ずれで苦しんだことを思い出していた。
まるで植木や花に語りかけるように、
僕は眠っている妻に語りかける日々が続いた。
出来るだけ注意して、苦しんでいないかどうかを見ていたけれど、
総合病院でのこと、やはり一人の患者に24時間体制では看護士が附け切れないものだ。
腫瘍熱の所為で汗ばんでいる妻の身体を拭き、
額や脇、鼠頸部を冷やしているタオルを交換したり、
僕の主な仕事はその繰り返しだった。もう数日の問題だ、
とも医者に云われていた。
ある日などは僕が仕事が終わって、病棟のエレベーターを降りたとき、
妻のうめき声が聞こえたので、すぐに姿勢を換えてやると、
僅かににっこりとしたのは、僕の気のせいなのか。
病室も個室に移り、何かの感染症のきらいもあるので、
マスクに帽子、簡易白衣を着て手袋をしてしか病室に入れなくなっていた。
そんな日々も約10日ほど経ったある日、
僕は病院のデイルームのソファーで仮眠を取っていた。
この10日ほどはバイタルの値も安定していたのだが、
それでも血圧が僅かずつ下がってきていて、
それがある値に達したら危ない、と言われていた。
そして金曜の仕事が終わり、病室から一旦自宅へ戻ったその夜明け前、
僕の携帯がなった。病院からだった。 
378: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 21:42:44
「血圧が下がってきています」との事だった。「すぐ来て下さい」
僕も息子も、病院へダッシュした。
病院へ着いたら、「安定しました」との事。
いささか拍子抜けしたが、何より安心した。
その日、僕は、なんだか身体が熱いことに気が付いた。
自分の身体が、である。
考えると3日ほど風呂にも入れていない。
土曜の日中に来た見舞いの親戚達の相手をした後、
息子と付き添いを変わってもらい、
一旦自宅にシャワーをしに戻った。
熱を測ってみると、41度である。
でもぜんぜんしんどくなかったのだ。
今寝込む訳にもいかないし、身体も他は全く問題なかったので、
父も連れて病院に戻った。
息子と交代し、息子が自宅で食事と風呂に入ってきたので、
夜になり酒が切れてむずがる父を一旦自宅に連れて帰った。
そして家に着いたまさにそのとき、息子から携帯に電話があった。
「血圧がどんどん下がっています。すぐに来て下さい」と。
380: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 22:05:27
病院に着くと、個室とナースステーションを行き来する看護士の姿が見えた。
妻との約束で、決して人工呼吸器などはしない、というのがあったので、
自力での呼吸が止まるといよいよとなる。尿が止まって2日経っていた。
妻の身体は腫瘍熱により僕より熱い感じがした。
もしかしたら、同じ感じを伝えたかったのかも知れない、と僕は解釈することにした。
なんだか、理由も無く誇らしかった。きっと熱でイカれていたのであろう。
血圧が少し持ち直し、少しほっとして、
その夜は酒を飲みそびれて機嫌の悪い父と、
息子と僕の3人で交代で様子を見ていた。
そして明け方近くになって、息子が付き添っていた。
僕は病室を出てすぐ隣の待合ソファーのあるところで横になっていた。
突然、息子が泣きそうな顔で出てきた。
今までに無い血圧の低下らしい。主治医がやってきて、
あれこれ看護士に指示をしながら僕たち3人に入るように促した。
もう、マスクも帽子も手袋も白衣も要らないらしい。
もしかすると、そのときを個室で迎える為の配慮だったのかもしれない。
「ご主人、息子さんも手を握ってあげていて下さいね。」
僕の手よりも更に熱い妻の手を握り締めていた。
いよいよその時が来たのである。
東向きにベランダの在るその病室の大きな窓から、朝日が差し込んできた。
妻は晴れ女だった。そしてまさに、まさに眠るが如く、静かに息を引き取った。
僕は息子をしっかりとハグした後、妻に向き直り、
いろんな計器や管を取り外されて身軽になった妻に語りかけた。
「長い間、良く頑張ったね。お疲れ様。」妻の頬をなで、その顔を覗き込むようにして。
溢れる涙は抑え切れなかったが、それでも微笑んで、精一杯微笑んで言った。
妻の長い戦いは終わった。
癌が見つかって余命3ヶ月、長くて半年、と言われてから6年と8ヶ月が経っていた。
…なんかもう顔がぐしゃぐしゃです。今日で終わりにする、と言っておきながら、
今日は最後までもう書けそうにありません。ごめんなさい。
明日には全てを書き終えます。
今日は今から帰って、家事をします。おやすみなさい。 
381: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 22:12:34
>>380

今夜はゆっくり休んでくれな
382: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/21(木) 22:41:58
>>380
乙、
書くことで、気持ちが楽になるなら書いてくれ。
無理はするなよ。
384: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/22(金) 09:40:01
>>380
しっかり吐き出せよ。
好きなときに、好きなだけでいいさ。
おまいさんの体が心配だ。
385: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/22(金) 10:29:55
義実家の件は寂しい事だが
>>380
が義兄や義母も自分の実の兄、実の母と思って面倒を見る
というつもりがないなら、仕方ないんだよ
向こうは380よりも経済力が圧倒的に無い。
自分らの事で精一杯なんだ
386: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/22(金) 21:40:40
温かいお言葉を掛けて下さる方々、有難うございます。
今日で書き終えようと思ったのですが、義母の体調が思わしくなく、
仕事が終わったら直ぐに隣市へ向かわなくてはならなくなりました。
誠に勝手な言い訳で申し訳ないのですが、
この週末は義母の世話をしに参りますので、
どうかご容赦を下さい。
おやすみなさい。
388: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/22(金) 22:17:53
>>386
律儀な人だな。体調大丈夫かいな・・・
394: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 21:02:24
おかげさまで義母の様子も小康状態を取り戻したようで、
数日後に退院できるようになりました。
妻の身体から色んな管やコードが外され、酸素マスクが外されたとき、
妻が亡くなったのだ、と言うことを思い知らされた。
手を握ると、まだ腫瘍熱の名残で充分温かい。まだ生きているようだ。
しかし、もうあの荒い呼吸をしていない。
力なく口を僅かに開けたまま、妻の目が開かれることはもうないのだ。
僕は暫く、阿呆のようにただ妻の傍に腰掛け、
じっとその顔を見下ろしているだけだった。
母が亡くなったときには、その臨終には間に合わず、
今のこの妻の状態と同じときに病室に駆け込んだんだなあ、
と今になって思った。
「まだ温かいじゃないか」同じ台詞を口にしていた。
汗をかいていた妻の顔をタオルでゆっくりと拭いてやりながら、
汗っかきが悩みの種だった妻を、もう汗をかくこともないことを寂しく思った。
何か色んな書類を受け取り、それと並行して簡単な化粧と清拭をしてくれていたようだった。
元々アイライナーの不要なほどクッキリ眼だった妻。唇には紅が差してあった。
葬儀会社の方が妻の亡骸を引き取りに来た。
担当医と少数の看護士に見守られて、
亡くなった患者だけが通る通路を一緒に出た。
葬儀会社の車に妻を載せ、葬祭会場へ運ぶのだ。
妻を載せた車には、息子が同乗して行った。
世話になった担当医と看護士の皆さんに心から厚く御礼を申し上げ、
僕は、朝日の強く照らす中、病院の外周を歩いて回って
自分の車を留めてある駐車場に向かった。
歩きながら、自分の足が地面に着いている感覚が無かった。
いつかこの日が来ることは解っていた筈なのに、
とうとう僕は最後までその覚悟が出来ないままこの日を迎えてしまった。
7年前に母を亡くし、その喪主を父にマル投げされ、
あたふたとするままに色んな法事を迎えた直後に発覚した妻の癌。
それから6年と8ヶ月、目まぐるしくも、
本当に沢山の事が在り、長く感じることもなく、
実にあっという間のことのように思えた。
まるで他人事のように、ゆっくりと思い出されては、消えていった.
395: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 21:33:01
葬儀会場に着くと、その控え室のようなところに妻は安置されていた。
葬儀社の方が妻の身体の周りに、ドライアイスをセットしていた。
その間に僕は、息子には妻の傍に居てあげるように指示をし、
息子の学校関連に連絡をし、一両日の忌引きの旨を伝えた。
僕の知人関係にはccでのメールで知らせた。また妻の知人達には、
何故か一人ずつメールや電話でお知らせをした。
また、妻の実母や実兄には電話をしたが留守電だったので、その旨を吹き込んでおいた。
返信はその日には無かった。
妻が運び込まれたとき、その葬祭場には既に告別式の方が居られ、
僕たちは控えの棟で待機することになった。
また翌日が友引だった為、妻の通夜は更にその翌日と言うことに決まった。
この控え室に二日居ることになったのだ。
必要な書類などを近くの自宅に取りに帰ると、父は相変わらず酒を飲んでいた。
「写真を選ばなくてはならんのー」と、心なしか嬉しげに見えた。少しイラッとした。
「明日が友引と言うことで、通夜は明後日、告別式はその翌日となります。
こちら(自宅)に電話や訪問者があれば、その旨お伝え下さい。」と父にお願いすると、
「そんなことは全て、喪主のオマエの仕事と違うんか?ワシはそんなことよりも、
母親を亡くした○○(孫:僕の息子)の事が可哀相で、呑まにゃおれんのじゃ。」とのたまう。
396: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 21:43:59
反論する気もなくした僕は、そのまま家を後にし、
町内会の隣保の世話人に、この度のことを伝え、
町内放送でのお悔やみのお知らせ(これは町内会のルールでもあるので)をお願いした。
お腹も空いたであろう息子のことを考え、
とりあえず弁当を何食か買って葬祭場の控え室に戻ると、妻はすっかりドライアイスに周りを囲まれた姿で眠っていた。
今日は奇しくも日曜で、明日は平日だが友引、
明後日の通夜の日は祝日とあって、まるで出来すぎのような日取りだなあ、
と反芻しつつも、息子には何か食べておくようにと弁当を渡し、
自分もその一つを食べたが、モノを噛んで味わっている感覚がしない。
葬儀社の方の段取りの説明もあったが、まるで頭に入らない。
とりあえずメモを取って、対応するしかなかった。
母のときも、なんだか用意されていた段取りに流されたような節もあって、
今回もそうなるのかなあ、なんて、まさに他人事のように呆けていたのかも知れない。
しかしその考えは甘かった。身内にアレほどまでに振り回されようとは、
このときには知る由もなかったからである。
その日は、一旦自営する職場に戻り、
告別式の日には休まねばならない事の段取りをし終えて、
妻の元へと戻った。
息子には、自宅に戻って通夜や告別式に向けて身体を休めるように伝え、
自分は、この控え室で夜を明かす事に決めた。
妻一人では寂しいじゃないか、と何故か思ったからだ。
物言わぬ妻は、まるで眠っているようだ。
しかしその身体は、限りなく冷たい。
僕は妻の亡骸に並ぶように座布団を敷き、其処に身体を横たえた。
手を繋いでやりたかったが、
妻の両手は、胸の上で固く結ばれており、
その上に何か重厚な布が掛けられてドライアイスまで載せられていたので、
それは断念するしかなかった。
安らかに眠っている妻の身体に手を伸ばし、その肘辺りに手を添えて、
僕は妻に「おやすみ」と言った。
398: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 22:07:23
遺体と夜を過ごすのみならず、添い寝をする事には、
恐怖や一種異常さ、更には狂気を感じる人も居られるかもしれない。
でも、その時の僕は、何ら異議を感じる事も無く、自然にそう出来たのである。
僕は少し眠ったのかもしれない。でも、妻は夢には出てきてくれなかった。
その事に僕は少しだけ残念な思いがした。
夜が明け、平日の月曜であるが、今日は友引であり、葬祭場は実質お休みである。
この控え室に僕と妻が居るだけであるが、程なくして息子がやってきた。
今日はギリギリまで妻の傍に居て、仕事に通常どおり出かけ、
最短で仕事をこなした後、最速で再びここに戻ってくるまでの間の交代要員として
息子に来てもらったのである。
僕が息子を妻の傍に残している間には、後に判ったことだが、
息子は妻と沢山対話をしたようである。僕は少しでも早く、
息子のグリーフケアをしないといけない、と思うに至った。
僅か14歳で母親を亡くしたのである。
まだまだ男の子にとっては母親の存在は大きい年頃。
しかも彼のその今までの人生の中で、
半分が闘病している母親とのモノでしかなかった。
彼をそんな境遇に生まれてきた事に対して、本当に不憫で申し訳なく思った。
これは今でもずっと思い続けている。仕方のない事だとは言え、
僕自身が母親を亡くした35歳のときですら悲しかったのであるから、
まだまだ母親にも甘えたい男の子の14歳では、その悲しみは如何ばかりであろうか。
息子には、一生詫びなければならないだろう。
こんな父の下に生まれてきた息子よ、どうかこの父を許して欲しい。
母親の愛を充分に受けられたとは決していえない息子よ、
どうか愛を知る大人に育って欲しい。
399: 334 2010/10/26(火) 22:30:57
奇しくも二晩、妻と共に夜を過ごせた。なんだか理由も無く誇らしかった。
ホントに他には誰も居ない二人きりの夜。まるで恋人時代の二人に還ったような気すらしていた。
もしその時の僕を眺めるものが居たら、異様なものに見えたかもしれない。
遺体に手を伸ばし、同じ天井を眺めるが如く、物言わぬ遺体に話しかける様は。
通夜の日になって、慌しくなってきた。
それこそ、色々な人(葬儀関係者)がやってきて、色んな手続きをしたり、
するべきことが一杯である。先ずは遺影を決めなければ。
僕は実は既に決めていた。
まだ息子が園児だった頃、近くの公園に出掛け、
ツツジの一杯咲くところで息子がカメラのシャッターを押した一枚の写真。
僕は野球の捕手のように屈み、妻はそれに横から覆いかぶさるように、
それでも顔は前に向けてニッコリとした写真が在るのだ。
妻の瞳はしっかりとカメラを持っていた息子に向けられ、
その瞳には小さくとも息子が映っていたに違いない写真が。
その事が父には気に入らなかったらしい。自分が仕切りたかったのだ。
酒臭い息を吐きながら、僕に散々罵詈雑言を浴びせて悪態をついて自宅に戻っていった。
どう思われようとも、僕はこの写真を遺影にする事にした。
妻は今も変わらず、あのときの息子に向けていた笑顔を僕たちにくれている。
修羅場が次々と襲ってくる事になるのだが、それはまた明日に書かせてください。
自宅に戻って家事をします。本当に長くなって申し訳ありません。
でも妻が亡くなって2年半経って初めて書く気になれたのです。
どうか我侭をお許し下さい。
皆さんおやすみなさい。
401: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 23:09:00
おつかれ。
がんばれよ。
402: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/26(火) 23:26:01
永眠した妻と添い寝するのは狂気なのかな?
床の間で二晩、一緒に寝たよ
入院中、一緒に寝られなかったから。
北枕でも関係なかった
とにかく一緒にいたかった
405: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/27(水) 21:30:59
>>402
> 永眠した妻と添い寝するのは狂気なのかな?
> 床の間で二晩、一緒に寝たよ
変じゃないよ。
俺の父も、亡き母と葬式までの二晩いっしょの部屋で寝てたよ。
添い寝じゃないが。
406: 334 2010/10/27(水) 22:03:19
通夜が始まり、友人知人たちが沢山来てくれた。
妻の好きだったミニーの気ぐるみパジャマを着せ(妻との約束)ミッキーとミニーのブライダルペアマスコットを添えてあげた。
それも父は気に食わないらしい。
通夜が終わって、僕の友人が残ってまで力づけようとしてくれていた。
義兄は来てくれていた。義母は来なかった。
遺影選びで不貞腐れた父は、通夜が終わるとさっさと自宅へ戻り、酒を飲んでいるらしい。
僕の友人たちは義兄と面識が無い。当たり前の話だが。
その友人たちに義兄が絡んだ(素面なのに)。
「お前ら、何人の顔ジロジロ見とるんじゃ!!」まるでヤ○ザの因縁である。
二者を隔離して、友人たちに詫びた。
喪主はとにかく忙しい。悲しんでいる暇すらなく、目まぐるしく立ち回る。
すると自宅に戻っていてくれた弟夫婦と何かあったらしく、
弟に父が切れ、取っ組み合いの喧嘩をした後、家を飛び出した、との電話。
飲みに出掛けたらしい。
じっと妻の傍で静かに悲しみをこらえる息子だけは、そっとしておいてやりたかったので、
それにのみ気を配り、後は機械的に動いていた。
407: 334 2010/10/27(水) 22:07:38
夜が明けて告別式。
やっと義母も来てくれた。
父は親類縁者たちに孫の自慢をしたいらしく、やたらと息子を色々連れまわそうとする。
僕と息子はお越し下さったお客様たちに入り口でご挨拶をしなければならない、
といっても、不服そうに睨み付ける。今は余り家族間で揉めたくは無い。
出棺の際、最後のお別れで、息子が泣きながら大きな声で、
「僕がこんな病気をこの世から無くしてやるんだ!」と言ったのが今も耳に残っている。
彼の最大のモチベーションとなることを願っている。
告別式が終わって斎場へ向かう。とうとうお別れだ。
火葬される前にもう一目妻を見た。そしてその頬に手を添えた。
さようなら、僅か15年余りの結婚生活ではあったが、ありがとう。
もうこの手に君を抱くことも出来ないが、ずっと傍に居て欲しい。
息子を授けてくれてありがとう。幸せにしてあげられなくてごめんな。
もう苦しくも痛くも無い所へ行くんだね。
もう暫くしたら、僕もそちらに行くから、そのときはまた一緒に居てくれるかい?
火葬場の扉が閉じられ、着火されるのが判ると、僕はその場に膝を落として、静かに泣いた。
僕の妻は、灰になってしまった。
骨拾いのときに、僕はこっそりと小指の骨であろう一片をそっと包みに入れた。
通夜のときに清拭業者に頼んで分けてもらった遺髪と共に、その遺骨は
今僕の持ち歩く小さなポーチに入っている。
逢えなくて寂しい。声が聴けないのが寂しい。
共に笑えないのが寂しい。成長していく息子を共に見れないのが悲しい。
さようなら、僕の妻。
こうして、妻は旅立っていった。
408: 334 2010/10/27(水) 22:17:21
皆さん、こんなただ長ったらしい話にお付き合い下さって有難うございました。
書きながらどうしても涙が出てきて仕方ありません。
妻の居ない生活も2年半が過ぎようとしていますが、その間にも色々なことがありました。
その中で、自分の父が自己愛性人格障害者であることや、
息子がそれに影響されて良くない傾向にあることなど、
まだまだ吐き出したいのが正直な気持ちです。
でも、もしかするとそれらの内容はスレチかも知れません。
ですから、この続きをどうしようか悩んでいます。
今現在の地獄のような生活は、まさにこの期間のことなのですから。
今日はこれで家事に帰ります。
長い稚拙な駄文にお付き合い下さり、有難うございました。
412: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/27(水) 23:01:53
>>408
334氏、すべて読んだから。
奥様の冥福をお祈りします。
413: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/27(水) 23:18:57
>>408
父親と息子のことは、役所か福祉事務所に相談しろ
一人で解決しようと思うなよな
414: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/27(水) 23:55:56
>>408
ここで吐き出したければ吐き出せよ。
少なくとも、おまいさん1人で戦うよりはここで吐け。
スレチなんて叩く奴はいないはずだ。
410: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/27(水) 22:51:07
息子心配だな
415: 334 2010/10/28(木) 21:31:05
皆さん、温かいお言葉、ありがとうございます。
結局、妻の葬儀関係(その後の経費も含めて)では、
合計300万以上掛かってしまった。
互助会のようなものには入っていたにも拘らず、
なんかオプションが付く度に跳ね上がっていく。
更に、家の宗旨は仏教ではない為、オプション扱いで何かと高いものばかりだった。
葬儀を司る祭司(仏教で言うお坊さん)に、あんなに費用が掛かるものとは想定外だった。
母親のときは、医療を含む損害保険や、生命保険のおかげで、
手元から出て行くお金はそんなにも無かったのだが、
妻の場合は、損保も生保も無い上に弔問客も沢山来てくれたので(会場にも入りきれないほど)、
規模としては大きなものになってしまった。
中には逢ったことも無い親戚(妻側)とか、名前すら聴いたことの無い親戚も来て、
何かと出て行くものが多かった。
仏教で言うところの四十九日にあたる法事が終わって納骨となった折も、
お墓に名前を刻んでもらったり、祭司に来てもらったりと
何かと出て行く費用は馬鹿にならなかった。
ここからは、正直、僕の甲斐性が無い、
ただ単に稼ぎが悪いことから来るものだ、と猛省している。
収支がだんだんと狂ってきた。
出来る手立ては手を尽くした。自分が仕事で居ない間の父の浪費が痛かった。
いわゆる、エコとは真逆の行動である。
光熱費は倍以上に上がった。後でわかったことだが、男3人になってしまった当初、
夕飯は父にお願いをしていた。今思えば、大きな間違いだった。
息子には父が固く口止めしていたらしいが、夕飯の殆どがレトルトか牛丼、
そしてスーパーの弁当のローテーション。
これでは駄目だ、と思った僕は、
仲の良い従兄を通して、妻側の遠い親戚にあたる隣町に住む女性に、
夕飯時のお手伝いを頼むことが出来た。
その女性は、DV被害から逃れ、親と住んでいたので、快諾してくれた。
それがあんなことになろうとは。
416: 334 2010/10/28(木) 21:53:35
父は昔からよく僕たちに云っていた。それこそ耳タコレベルで。
父は幼い頃、大きな家に住んでいて、
そこには使用人もいて、自分は何もしなくてよかったと。
しかしあの戦争が全てをワシから奪ったんじゃ、と。家も家族も裕福な暮らしも。
彼は、自分にその才能があったにも拘らず、孤児院に身を寄せるしかなくなって、
結果、中学までしか通わせてもらえなかった、と。
中卒の所為で自分は、お前らには想像も出来ん苦労を味わったんじゃ、
と何度も同じ話を聞かされていた。
ワシをそんな風にしたあの戦争が憎い。あの時代が憎い。
そして何より、先見の明なく家族をばらばらにしてしまった父親
(僕の祖父:僕は写真でしか知らない)が憎くてたまらない。
父親の所為で、ワシはほんの9歳で、母親を失ったんじゃからのー!と
そして自分は、その裕福な時代、祖母にはものすごく可愛がられた、とも。
戦前の頃で、直系嫡子なのだから、よくある話だとは思っているが、
その全ての要素が、彼の、いわば「自己愛」フィルターによって
捻じ曲げられた思い出と解釈に変換されてしまっているのだ。
かわいそうな人だ、と思う。哀れですらある。
しかし、その父親に対する憎悪が、あんな形で僕に降りかかろうとは思いもしなかった。
どうやら、彼の中では、「父親は息子にひどいことをした」というのが定着していて、
その所為で彼は僕にどんな酷いことをしたとしても
彼がその父から受けたことに比べれば甘いもの、なんだそうだ。
だから、彼はことごとく僕のやることなすことに逆らうのだ。
(僕には弟がいるのだが、結婚して家から出ているので、何ら近づこうとはしない。)
そして、孫は溺愛する。
僕がいくら息子を自立できるように厳しく指導しようとしても、
安易な助け舟を出して台無しにしてしまう。
このままでは息子は、父のコピーとなってしまう。
だから僕は、件の女性を招いたのだ。
何より、息子が学校から帰宅した折に「おかえり」と言ってくれる女性の声があることの和やかさ。
男3人で1年過ごしてみて、息子がそれを渇望していることが見て取れた僕は、
ちゃんとパート代に相当する費用を払って来て貰えるようにした。
当初は、息子も非常に喜び、よく懐いていた。
その女性も、残した息子と同じような年齢の息子を重ねるように接してくれていた。
しかし、父は大きな勘違いをしていた。
417: 334 2010/10/28(木) 22:30:38
父は、息子のために来てもらって夕食のお世話をしてくれるその女性を、
自分の為に来たお手伝いさんだ、と思っていた(る)ようだ。
裕福な家に育った時代の、使用人だとも思いこんだっぽい。
そしてあろうことか、その女性に手を出そうとまでしたのである。
幸い、未遂に終わったが、その話を聞いて、僕は即刻、その女性に詫び、
来てもらうことを止めて貰った。
そのことが、父にとっては、せっかく自分にあてがわれた女を、
息子である僕が引き剥がした、と解釈したのである。
「オマエまでもがワシから何もかも奪うんか!?」と罵倒された。
「やはりこの世に信じられるものは居らん。みんなが敵じゃ!」と。 
418: 334 2010/10/28(木) 22:32:25
僕は今でも朝5時に起きて子供の弁当と父と息子の朝食を作り、
子供が学校に出掛けた後(その間も父は呑みながら3時間掛けて朝食をとる)、
仕掛けておいた洗濯物を干し、
その後、洗い物や掃除をした後、父の昼食を作り、
彼がまたもや飲みながら昼食を2時間くらい掛けてとっている間に、
父と息子の夕食を調理し、
後はレンジで温めるだけ、と言う状態にして仕事に出掛ける。
10時ごろに仕事が終わると、帰路途中にある深夜も開いているスーパーで割引商品などを選んで購入し、
帰ったら、山のように積み上げられている昼食と夕食の洗い物を片付けて、
浴槽のお湯を洗濯機にバケツで移した後、朝に仕上がるように洗濯機をセットし、
寝るのは早くて1時、遅くなると3時くらいになる毎日だ。
何度説明しても彼らに節約とかエコの概念がないので、
節約できるところは僕が削っていくしかないのだ。
それでも、電気水道ガスを、まさに湯水の如く使う父。
米は新米のコシヒカリでないと機嫌が悪くなり、
それでも食べるかどうかもそのときの気分しだい。
余ったご飯を冷凍保存しても、冷凍米は不味いから、と食べない。
無駄をなくするために、少なめに炊くと、
僕の食べる分が必然的になくなる。
おかげで糖尿の良い対策にはなっているが。
ただ、それでも足りない費用は、僕が自分の保険を解約したり、
手持ちのコレクションを売ったりして凌いで来たが、
そろそろ僕も疲れた。
息子が当初の目標どおり東京に進学し、もし父も居なくなったら、
この家を僕独りで住む意味を見出さなくなった。
本当は今すぐにでも蒸発したいくらいだが、妻との約束がある。
息子を一人前にして初めて、その約束を果たしたことになる。
父は、僕を使用人としか思っていないようだ。
彼らが用意した普通の食事をしている間、
僕は洗い物や彼らの次の食事の準備をしている。
僕が食事を取らないのが普通になっているようだ。
おかげで、妻を亡くしてから30キロほど減量できた。
もとは太めだったからなあ。
自分が食べない米を研ぎ、自分が食べない食事を作り、
自分が殆ど居住していない家の支払い・掃除、メンテをし、
世のお母さん方がある日突然の蒸発願望を抱くこともあることを、今実感している。
419: 334 2010/10/28(木) 22:33:26
最後は、ただの愚痴になってしまいましたが、
これでもし、義母がどうにかなってしまったら、
義兄の世話も僕がしなければならなくなるのです。
何の為の人生なのか、判らなくなってしまっているのが今です。
奥様を失ってしまわれた諸兄の方々、こんなヘタレも居るのです。
なんか、変な終わり方でごめんなさい。鬱かも知れませんね。
ハッピーエンドでなくて、申し訳ありませんでした。
このスレは、心が折れそうになったら、また覗かせて下さいね。
さようなら、皆さん。今まで有難うございました。
420: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/28(木) 22:54:43
お疲れ様
421: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/29(金) 01:23:37
父親をなんで追い出さないんだろう?
422: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/29(金) 01:36:29
父親捨てろと背中押されたくて来たんだろうからはっきり言う
追い出せないなら施設なり入れてしまえ、金はかかってもいいじゃないか?
はっきりいうが10年後を考えると子供に全力投球しないと先がない
先がないというのは子供自身だよ、そんなの見てて結婚とかできるか?
普通の生活に幸せがないって思い込んでるだろう
そしてきっと自分も父親にああしないといけないと思い込んでるだろう
全部抱え込んで自分はそれでいいが、本当の家族の単位である息子が気の毒だ
きっと心の中で自分の地位の低さに泣いて育ったんだろう
今からでも遅くないから本当の家族を大切にしろ
義理は義理なんだから背負い込みすぎるな所詮他人だ…嫁は生きてるが言わせて貰った


1001:関連記事をキスログがお送りします:2017/1/10xx:xx:xx.xxID





彼に飲み物を出したら「テーブルに拭き跡がある」って言われた。私「気に入らないのなら帰って!」


毎日泥酔していた40歳の俺が酒を止めた結果。


父に「ブサイク」と言われ、女らしい物は全部排除されて育てられた私は…


【衝撃】結婚して久しぶりに自転車に乗ったら、あの頃の自分が嘘のように怖かった。何が起こったのか分からない…


【異常】引越しの挨拶をしに行くと「車、時々借りるから保険変更してね。月128円払ってあげる」って言われた。私(新種のモンスター…?)


【衝撃】絶大な信頼と人気のあった先生が人の命奪って逮捕され全国ニュースにもなった。釈放の日に一度だけ電話が来たんだが…


【涙】TV見てたら、亡くなった嫁が歩く気配がした。ハッとして振り向いたら…


【恐ろしい…】義母原因で骨盤を割り入院した私。→義両親がボストンバッグを3つ持ってきた。私「これなんですか?」→中身はなんと…


【ムリ】彼「ヤバい!今からお母さんくる!外出て!」私(えっ!?外は豪雨なのに…)


彼「生の鰻が手に入ったんだけど、蒲焼とか出来る?」私「出来ると思う」→彼の部屋に行くと元気に泳いでる鰻が…


重度のブスだけど目と眉が離れ過ぎてヤバイ…


【センス無】彼「はい、誕生日プレゼント」私「ありがとう(涙)」→中身が衝撃過ぎて…


【スカッ】義弟が結婚することになり、義実家での顔合わせに呼ばれたんだけど、卓上には卵料理の数々…。アレルギーなので白米だけを食べていたら…


高卒ゆとり(20)「月曜日成人式なんで仕事休みたいんですが…」俺「いやそれ困るって」同僚「みんな祝日出勤なんだから出てよ」


【いい話】嫁が「仕事休めない?」と言うので2日間有給とってきたんだが、その理由を聞いて大泣き。


産後、子供が4、5ヶ月で嫁が断酒を解禁。→嫁がベロベロに酔っ払って子供を外に連れ出そうとしたので顔を二発殴ってしまい…


治験で45万ゲット!!だが、全身が…


私「お金があるといいものを知れるんだね」友「お金に余裕なんてないよ。あなたみたいにカフェ巡りとかしたいよ」私(何で否定するわけ?)


【後悔】男性「結婚を前提に付き合いたい。今の旦那と離婚して」私「わかった」→離婚した3日後に逃げられてしまい…

引用元: http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/tomorrow/1260071484/

コメント
  1. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 16:54

    困惑しかない、なんで問題しか起こさないクズと関係続けてるの?
    マゾなのか?理解できない

  2. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 17:00

    なんか良いことがありますように。
    心からあなたの幸せを祈っています。

  3. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 17:08

    年金貰ってるならその金で爺を施設に入れろ
    。糞みたいな老人を置いてる事は優しい虐待。

  4. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 17:33

    奥さんが可哀想で可哀想で
    クソ親父と縁を切らなかったとこだけは許せなかった
    でも、お疲れ様
    今はもう心休まったかな

  5. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 18:04

    この人は際限無く優しい人なのかもしれないけどその優しさは子供にとって毒かもしれない
    そんな人のことを奥さんは好きだったのかもしれないから変われとは言えないけど奥さんに尽くした位子供のことだけを一番に考えて何が最善なのかをよくよく思ってほしい

  6. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 18:22

    長い

  7. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 20:37

    信じられるのは自分だけ、の祖父の教えのもとに息子さんも次第にあなたを父親、と言うよりか使用人として見ている部分があるのか、それとも学業に専念する代わりに家事には一切ノータッチなのかが気になりました。
    しかしお父さんも可哀想な境遇なのは間違いないですが自分なら息子との関係を深めるためにお父さんを遠ざけるように努力するかもしれないなと思いました
    少しでも笑えるように生きて生きましょう

  8. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 21:01

    穀潰しはとっとと捨てればいいのに

  9. 名無しのキスログ 2017年01月15日 at 22:58

    健康保険も生命保険も適用されない費用についてかなり気になった。
    いや変な意図じゃなくて、そういうの制度や契約の隙間でどうしても出てくるから。

  10. 名無しのキスログ 2017年01月16日 at 04:12

    キモい文章書くなぁ

  11. 名無しのキスログ 2017年01月17日 at 06:55

    女々しい老害だな
    不幸な世の中にしてるのは自分自身だといつ気づくのか

  12. 名無しのキスログ 2018年06月19日 at 00:36

    俺も息子が8歳のときに嫁を無くしたけど、こんなにgdgdにはならなかったけど
    報告者は人を愛しすぎるんだろうね。自営業の人脈つくりには必要だわ
    東京都文京区だけど200万ちょっとでまともな葬式できたわ
    真言宗の坊主に40万は別枠ね

  13. 名無しのキスログ 2018年06月25日 at 16:49

    文章もキモいが内容もキモいな
    最後まで読んでないけどようは父親の支配下で嫁さんに迷惑かけまくったって話だろ?
    父親はクソだがクソな父親から妻を守れない報告者もたいがいクソだな
    まあどうせ作り話だろうけど。いちいち言い回しが芝居がかっててキモいし

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

PICK UP