最新情報をCHECK!! 

【涙腺崩壊】病気で亡くなった彼女の手紙が届いた→読んだ後、彼が選んだ道は…

デフォルト画像
コメント(0)

人気のおすすめ記事

669: :2006/04/29(土) 15:33:42 ID:

大が去って3週間。
3月も終わりを告げた時だった。

俺は故郷への出張を命じられた。
仕事の内容は新入社員への研修。日程は一週間。

研修開始日の前日夜、俺は故郷に先乗りした。
前もって太田家には出張のことを連絡していたので
お父さんは太田家への滞在を勧めてくれたが、
連日、同僚との飲み会が予想されたため、
俺は迷惑をかけまいとお父さんの申し出を辞退していた。

会社のとってくれたホテルに、俺は苦笑した。
そこは三年前のクリスマスイブに、芽衣子さんと泊まるはずだったホテル。
さすがに同じ部屋ではなかったけれど、窓から見える夜景は変わらなかった。

一瞬よぎるほろ苦い思い出。

(思い出…になったなぁ)

缶酒片手に、しばらく夜景を眺めた。

翌日。
古巣である事務所に出勤すると、懐かしい顔が俺を出迎えた。
転勤前によくパートナーを組んでいた後輩・友枝だった。

「お久しぶりです!
今日は俺が大塚さんのアシスタントですよぉ。凸凹コンビ復活!!(笑)」

ずんぐりむっくりとした体躯に、人懐っこい笑顔。
男の俺から見ても可愛らしく感じる友枝は、少しも変わっていなかった。

いや、少しお洒落になったかな。
趣味の良いワイシャツとネクタイが似合っていた。

670: :2006/04/29(土) 15:35:11 ID:

研修は午後から始まった。

みんなお揃いかと思えるような、
色も形も定番のリクルートスーツに身を包んだ初々しい新入社員たち。
中途採用で入社した俺の目に、彼らがとても眩しかった。

研修はとにかく忙しかった。
しかし友枝のサポートでそつ無く進行することができた。
昔 はちょっと頼りない男だったが、この三年で見違えるように成長していた。
所作の全てに自信が覗える。
頼もしくもあり、ちょっとだけさみしくもあった。

無事に初日を終え、後片付けをしていると友枝が言った。

「大塚さん。今日この後、どうします?」
「んー。さすがに疲れたよ。帰る」
「ちょっと付き合っていただけませんか?」
「飲むのかぁ?やだよお前、うわばみなんだもん(笑)」
「そんなこと言わず(笑)お話、というかご報告があるんです」
「
なんだ?」

エヘヘ、と意味深な笑みで友枝は俺の問いをかわした。
妙に気になった俺は、彼の誘いに応じた。

671: :2006/04/29(土) 15:37:11 ID:

連れて行かれたのはとても洒落た店だった。
赤ちょうちんがステータスだった友枝だけに、意外で驚いた。

「こんな店ができたんだなぁ。というかお前、よく知ってたな(笑)」
「エヘヘ」

またあの意味深な笑いだ。

「この店、彼女から教えてもらったんです」

驚きの連続だった。
三年前まで『彼女いない歴=年齢』だった友枝。
とても嬉しそうだ。俺も嬉しかった。

「やったなおい!彼女できたんかぁ」
「はい!しかも俺、結婚します!!」

おいおい、まだ驚かす気か、友枝。

「うわぁ、おめでと!…で、相手は?」
「大塚さん、おぼえてますかね?○×社の野田 芽衣子」

驚くにもほどがあった。

672: :2006/04/29(土) 15:38:14 ID:

「式の日取りとか最近決まったばかりで、まだ会社の誰にも言ってないんです。
それにまず、大塚さんに報告したくて」

前置きをした友枝が、こぼれる笑顔で話を続けた。

俺と芽衣子 さんの関係を知っていたのは社内では東京の先輩だけ。
先輩は口の堅い人だったから、友枝は知らないはず。
俺は平静を装った。

付き合い始めたのは去年の6月だという。
以来、順調に時を重ね、半年後のクリスマスにプロポーズしたそうだ。

はしゃぎながら芽衣子さんとの惚気話に夢中になる友枝。
いちいち頷 きながら友枝の話に耳を傾ける俺。
ふたりとも、頼んだ酒や料理にほとんど手をつけなかった。

早くホテルに帰って頭を整理したかったが、
無邪気な友枝の顔を見ていたらいつしか帰る気も失せ、
俺は誘われるまま2軒目の店へとついて行った。
転勤前によく友枝と通ったバーだった。

673: :2006/04/29(土) 15:39:08 ID:

俺のことを覚えていてくれたバーテンは、
あの頃いつも飲んでいた酒を用意してくれた。

「あらためて…おめでとう」

友枝のグラスにカチンと当てると、なんと友枝が泣き出した。

「な、なんだ!?どした??」

狼狽し、友枝の背中を摩る。

「い、いや、すんません。うれしいんス。うれしいんス」

ワイシャツの袖で、友枝は何度も目を擦った。

「大塚さんのっ、“ありがとう”がっ、うれしいんスっ」

可愛いヤツ。
こんなに無垢なヤツもいまどきいないだろう。

674: :2006/04/29(土) 15:40:08 ID:

2杯目を注文した時は友枝も落ち着きを取り戻していた。
仕事でも見たことのない、至極真面目な表情で友枝が語り出す。

「実は彼女と付き合うことになる前、俺、一回告白したことがあるんです」
「…いつ?」
「 一昨年の7月くらいでしたかね」

俺と芽衣子さんの交際が終わった頃だ。

「そん時は『好きな人がいるから』って、断られたんです」

「………」

「でも俺 、彼女のことが、初めて会った時から好きだったから、
諦められなくて、ずっと、想い続けてたんです」

知らなかった。
そんなにも深く、長く、友枝が芽衣子さんのことを想っていたなんて。

「彼女はいつも寂しそうでした。
その顔を見るたび、
好きな人とうまくいってないんだなって、俺は悲しくなりました」

胸にチクリと、何かがささる。

「だから俺、彼女の相談役になろうって、思って…
…あ、でも俺っ、別に変な下心は無かったっスよ!?
そんなんじゃなくて、あの、」

…なんていいヤツなんだろう、こいつは。

あさっての方向を見ているバーテンが、ウンウンと頷いている。
俺たち以外に客はない。

アンタもそう感じたんだね、バーテンさん。

675: :2006/04/29(土) 15:41:20 ID:

「それから一ヶ月に一回、彼女を食事に誘ったんです。
俺、見た目こんなだし、嫌がられるかなって、
ビクビクしながら彼女を誘ったんですけど、彼女は笑顔で応じてくれました。
ただ…俺、店のことなんて詳しくなかったから、
いつも彼女に店を選んでもらってましたけど(笑)
…食事に誘ってるのは俺なのに…かっこわるかったなぁ(笑)」

みるみる友枝のグラスが空になっていく。
俺はまだ一杯目だった。

「相談役って言っても、彼女はいつも多くは語ってくれませんでした。
でも帰る時はいつでも『ありがとう』って、すごく綺麗な笑顔で言ってくれて。
毎回ドキドキしてました」

初めて友枝の口から聞けた“女性の話”。
始めはその相手が芽衣子さんであることに驚きと戸惑いをおぼえたけれど、 友枝の素直な言葉にいつしか俺は引き込まれていた。

「 そしたら去年の6月、
彼女のほうから『付き合ってください』って、言われたんス。
俺ビックリして、『いいの?』って何回も聞いてしまいました」

よかったなぁ。

素直にそう思えた。

676: :2006/04/29(土) 15:43:07 ID:

ふと、バーテンが俺たちにグラスを差し出した。

「これ、良かったら召し上がってください。お祝いです」

「やっぱり聞いてましたね(笑)」

「はい(笑)」

ばつの悪そうに苦笑しながらバーテンが言った。

「ウチのオリジナルです。
本来はカップルの方にお出ししているんですが」

桃の香りと、微かな酸味。
シャンパンでアップされているそのカクテルは、この季節にピッタリな感じだった。

「なんという名前なんです?」

「“両想い”です。おめでとうございます」

「あ、ありがとうございますッ。ありがとうございますッ」

友枝がまた泣き出した。

677: :2006/04/29(土) 15:43:59 ID:

友枝を宥め、店を出た。
千鳥足のくせに、友枝はホテルまで送ると言ってきかず、
結局、肩を貸しながらホテルまで歩いた。

「ここでいいよ。ありがとな。気をつけて帰れよ」
「はい!ありがとうございました」

気になってたことを聞いた。

「…そのワイシャツとかネクタイとか、さ」
「はい?」
「野田さんの見立てかい?」
「はい!!」

酔ってるからか、照れ臭いからか、
真っ赤な顔して元気に返事する友枝を、なんだか無性に抱 きしめてやりたくなった。

のっそりと踵を返した友枝がタクシーに乗り込むのを見届け、俺は部屋へと上がった。

冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを掴んだまま、ベッドへと倒れこむ。
夢も見ずに、深く眠った。

678: :2006/04/29(土) 15:45:36 ID:

それからの一週間は、夜毎、宴会に興じた。
太田家にも一度顔を出したが、それ以外は友枝や他の同僚たちと飲み歩いた。
そして研修最終日の夜を迎えた。

「大塚さんのお別れ会をしますから!」

友枝の音頭で事務所の社員全員が集まり、宴となった。
いい加減、二 日酔いなのか何日酔いなのかわからぬほど酒浸りの身体になっていたが、
彼らの気持ちに付き合った。

「2軒目、カラオケ行きます!逃がしませんよぉ(笑)」

ニヤリとした友枝に、俺も観念の笑みを向けた。

珍しいことにカラオケ屋には年配の社員も参加した。
若手だけかと思っていたのに、事務所のほぼ全員が顔を揃えている。

「? 珍しいな。部長までいるじゃん?」
「俺が誘ったんです」

友枝の鼻息が荒い。

「ふーん?」

その答えは一時間後に判明した。

「はい!みなさん!聞いてください!!」

最高潮を迎えた部屋の喧騒を友枝が制した。

「わたくし友枝、このたび結婚することとなりました!」

部屋中 に『?』マークが飛び交った後、友枝は質問攻めにあった。

「誰と!?誰と!?」

当然の質問に、友枝が屈託の無い笑顔で答えた。

「実は…これからココに来ます!」

!!!!

なんてこった。

679: :2006/04/29(土) 15:46:42 ID:

今この空間で一番ドキドキしているのは俺だ。間違いない。

やってくれるな、友枝。

ドキドキは何分経っても収まらず、
心の準備はいつまでも出来なかった。

20分後、芽衣子さんは来た。

彼女がドアを開けて入ってきた時、
顔を上げられずにいた俺の左右の耳に、
とてつもない喚声が飛び込んできた。

男性社員からは悲鳴が。女性社員からは歓声が。

それからはカラオケどころではなかった。
みんなが寄り添うふたりに群がった。

恥ずかしげに俯く芽衣子さん。

今まで見たこともないくらい、胸を張っている友枝。

さっきまで俺と 一緒にあずさ2号を歌っていた男が、その時よりも数倍輝いていた。

彼らの姿をぼーっと眺めながら、
俺は芽衣子さんと付き合うことになったあの夜を思い出していた。

680: :2006/04/29(土) 15:47:38 ID:

まともに芽衣子さんと会話もできないまま、2次会はお開きとなった。

またもヘベレケになった友枝が俺をホテルまで送ると言う。
そして芽衣子さんも。
3人、肩を並べて歩いた。

だがホテルに着いても友枝は俺を放してくれなかった。
結局、友枝と芽衣子さんは部屋の前までついてきた。

「芽衣子ちゃん!俺ねぇ、大塚さん…だ~い好き!」

愚にもつかないことを叫びながら、友枝が俺に抱きついてきた。

「俺も友枝、だ~い好き!」

言いながら友枝を抱き止めた。

互いに抱きしめ合う30男たちを、芽衣子さんは微笑みながら見ている。

ふっ、と友枝が軽くなった。そして重くなった。
ヘナヘナと、俺の身体を舐めるように崩れ落ちて行く。
床に大の字になった友枝を見、そして芽衣子さんを見やった

芽衣子さんと目が合った。今日初めて芽衣子さんと交わす視線だった。

一瞬の後、どちらともなく、ぷっと笑った。

「ひとまず部屋で寝かせよう」

俺と芽衣子さんは笑いながら友枝を抱え上げた。

「ほら、しっかり(笑)」

そう言って友枝の右腕を肩に抱え込んだ芽衣子さんの目は、
なんとも言えない優しさに満ちていた。
俺は慌てて視線を外し、友枝の左腕で顔を隠した。

681: :2006/04/29(土) 15:48:48 ID:

ベッドに友枝を寝かせると、静寂が部屋を包んだ。

「元気だった?」

芽衣子さんが切り出してくれた。

「うん」

なんとか芽衣子さんに顔を向けた。

「このホテル…だったんだよね?」

「そうだったね(笑)」

あの日を思い出す。

と、大いびきの友枝に、ふたりの視線が向いた。

「ラウンジに…行くかい?」

「うん(笑)」

ふたりでそっと部屋を抜け出した時、
なぜだか悪いことでもしているかのような錯覚に陥った。

「ずっと…ちゃんと話をしたいと思ってたの」

軽めのカクテルを一口含みながら、芽衣子さんが言った。

「そう…なの?」

同じものを俺も注文した。
いつもなら飲まないであろう、甘ったるいカクテル。
しかしそれは渇いていた喉にとても優しかった。

「うん。でもね…」

ふたりともバーテンの振るシェイカーを眺めていた。

「もう…いいの。もう、いいんだ」

自分の言葉に、ウン、とひとつ頷いて芽衣子さんは笑った。
俺も芽衣子さんに笑みを向けた。

「招待状、もらえるよね?」

そう言った俺の顔を、芽衣子さんがじっと見つめる。
潤んだ瞳に柔らかな光を灯し、芽衣子さんは言った。

「…ありがとう」

その言葉で、胸に残っていた最後の何かが、すーっと消えた気がした。

俺も…ありがとう。

682: :2006/04/29(土) 15:49:48 ID:

部屋に戻ると、友枝は本格的な眠りに突入していた。

「今日はこのまま、旦那さんは預かるよ(笑)」

「ごめんね。ダーリンをよろしく(笑)」

ロビーまで見送ることにした。
エレベーターの中、芽衣子さんが小さな声で言った。

「健吾君」

「うん?」

「今も…従姉さんのこと、好き?」

「うん」

ためらいもなく、素直に言えた。

微笑みながら、芽衣子さんは去っていった。

683: :2006/04/29(土) 15:50:54 ID:

部屋に戻り、友枝のネクタイを緩めてやる。
しばらくその寝顔を見つめた。

(こいつは…勝ち取ったんだ)

“勝ち取る”という言葉に、改めて俺は自分が持つ劣等感を意識した。
だがそれは、友枝に芽衣子さんをとられた…などというものではない。

友枝が勝ち取ったもの。

しあわせ。

ひたむきに相手のことだけを想い、努力してきた友枝。
それを得るのは当然だった。

俺は…彼ほど努力しただろうか?

否。

いつもウジウジと後先ばかり考えていた。
親父と母の心情を障害と見なしていた。
あきらめる道だけをひたすら選び、“忍ぶ恋”などというものに酔っていた。

『どうにかするんなら、何かぶっこわさないと、な』

大の言葉が頭に浮かぶ。

俺が事を起こせば、壊れるのは親父や母の心だと思っていた。

だが本当に壊れるのは、いや、壊さなければいけないのは、俺の臆病さなのだ。

(ありがとな、ダーリン)

友枝の頭を、クシャクシャに撫でた。

684: :2006/04/29(土) 15:51:41 ID:

東京に帰り、いつもと変わらぬ日常に戻った俺の元にメールが届いた。

恵子ちゃんからだった。

『ゴールデンウィークに親戚一同集まってバーベキューします。
健吾君、来れるかな? ていうか、絶対来ーい!(笑)』

文字がやたら愛しい。

返信。

『喜んで参加させていただきます』

断る気はなかった。

一歩、前へ。

俺は歩ける気がした。

685: :2006/04/29(土) 15:52:38 ID:

GW。
たった一日だけだが休暇をとった俺は、心の急くまま新幹線に乗った。

早く行きたい。バーベキューに行きたい。
いや、バーベキューなんてどうでもいいんだ、ホントは。

駅には恵子ちゃんが迎えに来てくれていた。

およそ一年ぶりに見る恵子ちゃんは…可愛かった。とても。

恵子ちゃんの実家からほど近い、山裾の川原がバーベキューの場所 だった。
すでに俺以外はみんな顔を揃えていた。
まずは一杯、と生酒を手渡される。
だが手厚い歓待もほんの束の間、

「健吾君、手伝ってぇ~」

調理部隊からお声がかかった。

転勤してからは年に1度会うか会わないかの親戚たちだったが、
この頃になるとすっかり俺も彼らと遠慮会釈のない関係を築けていた。
ほいほいと軽く腰を上げ、一員であることを喜ぶ。

…などという気分は、一時間で吹っ飛んだ。

忙しい!
次から次へと焼き物に勤しむ俺。

うがー
何しに来たんだ俺は。
恵子ちゃんと話してぇ。

しかしそんなレクレーションはとんと巡ってこない。

たまに恵子ちゃんが給仕として出来上がった料理をとりに来たが、
汗だくになって調理している俺に、

「ご苦労さま(爆笑)」

一言声をかけ、すぐに女性陣の輪の中に帰っていった。
忙しなく手を動かしながら、心の中で指を銜えて“女の園”を眺めた。

686: :2006/04/29(土) 15:53:33 ID:

午後3時を回った頃、救いの手が差し伸べられた。

「健吾君、少し休みなよ」

恵子ちゃんの父・守さんだった。
これ幸いとばかりに義弟に調理を押し付け、守さんから生酒を受け取る。

そのままなんとなく守さんとツーショットになった。
実のところ守 さんとはこれまであまり話したことがない。

親戚が集まる席といえば決まって酒席で、
俺は酒豪ぞろいの彼らといつも馬鹿騒ぎに興じてきたのだが、
守さんは下戸のため、正直、話すのが辛かった。
素面 の相手と酔っぱらいではノリが違う。
それに守さんは真面目な人だったからちょっと近づきがたくもあった。

しかし親戚連中に強引に勧められたのか、
今日はちょっとだけ守さんも酒を楽しんでいたようだ。
顔が少し上気している。

お互い酒が入れば自然と会話も弾む。
話の内容なんて他愛のないものだったとおもうが、
小一時間も経った頃、

「ようし、もう“健吾君 ”なんて他人行儀な呼び方はしない。
健吾!って呼ぶからね」

そう言われた俺は守さんと打ち解けたような気がした。

687: :2006/04/29(土) 15:54:48 ID:

そのうち、酔っぱらった守さんは高鼾で寝てしまった。
ブルーシートに大の字になっている守さんに、恵子ちゃんが上着をかける。
そして俺に向き直って言った。

「ちょっと散歩でもしない?森の中に、良いトコあるんだ」

どこへでも行きますとも。

「お父さん、あんなになっちゃうなんてなぁ(笑)」

恵子ちゃんの歩幅に合わせながら、森の中の小道を歩く。

「ごめん。ちょっと調子にのって酒勧めすぎたかな?」
「ううん(笑)たまにはいいんじゃないかな。大した量でもないし」

…たしかに。酒を紙コップ3杯程度だった。

「きっと嬉しかったの、お父さん」
「俺と話したことが?」
「そう。ウチは私とお姉ちゃんとお母さんで女だらけでしょ?
だから男同士の会話っていうのに飢えてるんだと思う」
「なるほどね」
「それにね。お父さん、健吾君のことは前から気にしてたの」
「なんで??」
「さあ(笑)
昔、私と健吾君でよく飲みに行ってた時、実家に帰るたびに健吾君のこと聞かれた」
「…で、なんて答えたん?」
「変な人、って(笑)」
「あっそ(笑)」

688: :2006/04/29(土) 15:55:57 ID:

木立が開け、目の前に小さな滝壺が現れた。

「到着」
「おおっ、いいねぇ」
「私のお気に入りなの、ここ。
小さな滝だから、森の静けさを壊さないんだ」

滝壺のほとりにあった大 きな岩塊にふたりで腰掛けた。
小さなサンダルを脱ぎ、恵子ちゃんは素足を水の中へと入れた。

ぱちゃぱちゃぱちゃ

いたずらに水を掻く白い足が、戯れる二匹の魚のようだ。

ふたりとも何も言わず、ただ水面と木々と空を眺めた。

恵子ちゃんがその時、何を考えていたのかはわからない。
だが俺は、この心地良い静寂を乱してよいものか、考えていた。

静寂を打ち破る俺の一言。
それはずっと言いたかった一言。
そして今にも言いそうになる一言。

だがここに至っても、俺はまだ踏ん切りをつけられずにいた。
押し黙っていたら、恵子ちゃんが俺の顔を覗き込んできた。

「なに考えてるの(笑)」

驚き、怯み、
動揺が愚かな言葉を紡いだ。

「あ…あのね、恵子ちゃん」
「うん?」

「彼氏、できた?」

689: :2006/04/29(土) 15:57:05 ID:

馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。

自分に呆れた。
呆れてものが言えない。
いや、実際、次の言葉が出て来なかったのだが。

恵子ちゃんの顔が強張った。俺を覗き込むのをやめた。

「そんなこと…健吾君に聞かれたくない」

「そ、そっか」

小さな滝がナイアガラにでもなった気がした。

「そろそろ戻ろっか」

恵子ちゃんはいつもの声音に戻っていた。

俺の右横を歩く恵子ちゃんに顔を向けられない。
かといって前を向いていても道なんて見ていない。

(告白してフラれた相手に「彼氏できた?」なんて…そりゃ聞かれたくないよな)

右肩が重い。右頬が引き攣る。

(本当は…あんなこと言うつもりじゃなかったのに)

傾いた木洩れ陽が視界を濁す。うっとおしい。

(ええい、言っちまえ!)

「あのね恵子ちゃん、さっきのね、あれはね、」
「あ。もうみんな片付け始めてるよ」

いつのまにか森を抜けていた。

690: :2006/04/29(土) 15:57:44 ID:

「そろそろ帰るよ~」

戻ってきた俺に母が言った。
今夜は太田家に世話になる予定だった。

「じゃーね、健吾君。今日はご苦労様」
「う、うん。さいなら」

恵子ちゃんの口調は優しかったが、
守さんを介抱するその背中は怒ってる…ような気がした。

…いつまでも見てたって仕方ない。
諦めて、お父さんの車に乗り込んだ。

がっかりだ。
自分に。

691: :2006/04/29(土) 15:58:29 ID:

渋滞に巻き込まれながら太田家に帰り着いた時には陽はとっぷりと暮れていた。
さすがにみんな疲れていたため飲み直す気はなく、
三々五々、各々の部屋で休息をとることとなった。

俺は身体に染み付いたバーベキュー臭を洗い流そうと、風呂をつかった。
身体だけはさっぱりとし、居間に戻ると母が座っていた。

「お茶、飲む?」
「ん。もらうよ」
「今日はお疲れさん」
「ホント疲れた(笑)でも楽しかったよ」
「守さんと盛り上がってたね」
「あんまり飲めないのに付き合わせちゃって、悪いことしたよ」
「よろこんでたよ」
「ならいいけど」
「アンタがいなくなってた時、
突然
ガバッと起きだして『健吾どこだ~』って騒いでた」
「マジで?あはは」
「気にいられたね」
「だったらうれしいね」
「恵子ちゃんのこと、好きなの?」

はい、とお茶を差し出しながら、流れるように母が聞いてきた。

692: :2006/04/29(土) 15:59:16 ID:

「…なんで?」

視線をTVに固定したまま、平静を装った。
焦点はぼやけていた。

「なんとなく。今日のアンタ見てたらそんな気がしたの」

もはや言い逃れることも、取り繕うことも、俺自身が許さなかった。

「…うん。好き、だ」

まっすぐに母を見た。

「そう」
「うん」
「いつから?」
「ずっと、前から」

母の表情に変化はなかった。

「お父さん(実父)は、知ってるの?」
「いや、言ってない」
「そう…」

ふたりのお茶が冷めていく。
母の目の光が強くなった。

「恵子ちゃんには伝えたの?」
「…ううん…」

光がしぼんだ。
顔を伏せた母の声が小さくなった。

「私たちのこと…考えたから…なのね?」
「………」

廊下を踏む足音がした。誰かが起きてきたのだろう。

「考えさせてたのね…ずっと」

消え入るような声だった。

693: :2006/04/29(土) 16:00:07 ID:

明くる朝、帰りの身支度を整え居間に下りると、母はすでに仕事に出た後だった。

結局、母はあれ以上なにも言わなかった。

(なんか…言ってほしかったな)

賛成にせよ反対にせよ、何かしら母の言葉が欲しかった。

賛成ならば感謝した。
反対ならば 説得した。

昨日、絶好のタイミングを逃してしまった俺は、
情けないが俺を後押しする何かを求めていた。

駅まで俺を送るために、お父さんが起きてきた。
玄関へ行き、靴を履く。
と、靴の中に何かが入っていた。

『健吾様』と書かれた小さな封筒だった。

お父さんに見つからないよう、あわててポケットに閉まった。

駅に着くと新幹線の時間にはまだ間があった。
お父さんは発車時間まで付き合うと言ってくれたが、
二日酔いで辛そうだったのですぐに帰ってもらった。
なにより 、封筒を早く開けたくて仕方ない気持ちもあった。

手近な喫茶店に入り、荒々しく封筒を破った。
中には母からの手紙が入っていた。

694: :2006/04/29(土) 16:01:59 ID:

『健吾様
あなたの気持ちを聞き、とても悲しく思いました。
それはあなたが恵子ちゃんを好きだということにではありません。
あなたが私やお父さんのことを考え、
恵子ちゃんへの気持ちを我慢していたことにです。

あなたには子供の頃から負担ばかりかけてしまいました。
経済的にも、精神的にも。
あなたは私たちの前では決して顔にも態度にも出さなかったけれど、
心の中ではとても辛い思いをしてきたのだと思います。
欲 しいものも買わず、友達との付き合いも控え、
あなたはいつも笑顔でいてくれました。
ごめんなさい。甘えてしまってごめんなさい。

でもその上、恵子ちゃんへの気持ちまで押しころしてきたなんて。
私は自分が情けなくて仕方ない。

いつだったか、あなたと恵子ちゃんが結婚したら、なんて話をした時、
あなたの態度から私は冗談だと思っていました。
あなたの本当の気持ちに気づきませんでした。

本当にごめんなさい。
あなたにそんな考えを抱かせてしまって。

でもね。
親というものは子供の幸せを第一に考えるものなのです。
いつもあなたに迷惑ばかりかけてしまい、親として失格な私でも、
いつまでもあなたの親でありたい、そう思っています。

こんなことを言える資格はないけれど、
あなたがうれしいと、幸せだと思える決断をしてください。
あなたが決めたことは、きっと私にとってもうれしいことだと思っています』

冷めた紅茶に一口も口をつけず、何度も読み返した。
母の手書きの文字に、胸がいっぱいになった。

695: :2006/04/29(土) 16:02:41 ID:

時間となり、新幹線に乗り込む。
発車後、何分か経った時、恵子ちゃんの実家の近くが車窓に映った。

(親父も…そう言ってくれるだろうか…)

様々な感情が綯い交ぜとなっていたが、向いている方向はひとつだった。

横浜に戻ると友枝から結婚式の招待状が届いていた。

(順調だな)

並び立つふたりの姿を微笑ましく思い浮かべながら、
今夜の仕事のために身支度を整える。

家を出、近所のポストに返信葉書を投函した。
もちろん、“出席”にマルをして。

696: :2006/04/29(土) 16:03:28 ID:

7月。
結婚式に出席するため、職場に休暇申請を出した。
式は8月に入ってすぐ。
お盆休みを避けた日程だったため、許可はすんなり下りた。

一週間の休み。
目的は結婚式と…もうひとつ。

俺は親父に電話を入れた。

「ずいぶんとご無沙汰じゃないか、おい!この薄情者!!」

親父の声は弾んでいた。

「いつも電話を返さなくてごめんな」
「ん、若いうちはそんなもんだ。気にすんな」
「8月、帰省するよ。そん時、メシでも食わないか?」
「おお!わかった!待ってるぞ!」

…自分の都合だけで連絡をとったりとらなかったり。
親父のうれしそうな声に罪悪感を覚えた。

そして8月はすぐにやってきた。

697: :2006/04/29(土) 16:04:29 ID:

考えてみると、俺は新幹線の中でいつも考え事をしている。
今日のテーマは“親父への告白”。

恵子ちゃんのことを、親父に打ち明ける。

…でも、なんて言ったらいいんだろ。
いや、ストレートに言えばいいじゃないか。
ああ、こんなに悩むんなら電話で話した時に言えばよかった。
いや、こういう大事なことは、会って、顔を合わせて言わないと。
でも、親父の顔を見ながら言えるのか?
そしてなんて言えばいいんだよ?

…エンドレス。

太田家ではお父さんと母と義妹が俺を迎えてくれた。
いつものように和やかな宴会。
母もいつもどおりの笑顔だった。

お開きとなり、義妹が帰った。
お父さんは珍しく酔い潰れてしまった。
寝室に連れて行き、母の片付けを手伝う。

食器を運び、台所の母にバトンタッチする。
ふと手を休め、母の背中に言った。

「明日、親父に会うよ」

洗い物を続けながら、母が顔だけをこちらに向けた。

「そう」

笑顔だった。

「うん」

本当は『ありがとう』と言いたかったのだが、片付けに戻った。

698: :2006/04/29(土) 16:05:32 ID:

翌日の夜、親父に指定 されていた 店へ向かった。
そこは親父のアパートから程近くにある小料理屋。
中年夫婦だけで切り盛りしているこじんまりとした店で、
よく親父が晩飯に利用していた。
俺も2~3度、一緒に来たことがある。

(ここなら落ち着いて話ができるな)

親父は仕事で少し遅れていた。
カウンターで持て余していた俺に、
顔を憶
えていてくれた旦那さんが酒とつまみを出してくれた。

今日は暑かったから酒が美味い!…はずなのだが、冷たいだけで味がしない。
俺は緊張していた。
この期に及んでもまだ、これからの行動に自信が持てなかった。

ほどなく親父がやってきた。
俺の姿を認めるや、ニコニコとした笑顔で向かってくる。
俺は顔を背けた。

「大将!奥、いいかい?」

旦 那さんの快諾を得、カウンターから奥の小上りへと移動した。

「女将さん、憶えてるかな?俺の息子。今、東京で働いてるんだ」

オーダーをとりにきた女将さんに、嬉々として、誇らしげに俺の話をする親父。

(年とったなぁ…)

アーノルド・シュワルツェネッガーのような筋骨隆々の体躯は今も変わらないが、
頭髪はきれいに銀髪になっていた。
顔に刻み込まれたシワが、笑顔と共に一層目立った。

この笑 顔が消えてしまうかもしれない話。

俺は今からそれをする。
くじけそうになる気持ちを、必タヒにささえた。

699: :2006/04/29(土) 16:06:22 ID:

いつになく饒舌な親父と酒を酌み交わしつつ、二時間が過ぎた。
…未だ切り出せない。

だが突破口は他ならぬ親父が開いてくれた。

「この間、千夏と陽子から電話がきてなぁ」

千夏・陽子とは、亜矢(実妹)の娘たちのことだ。

「子供の日にオモチャ送ったから、その礼の電話だったんだけど」

親父の目尻は下がりまくっていた。

「年に一度くらいしか会わない俺に、じいちゃん、じいちゃん、ってなぁ」
「かわいいな」
「ああ…かわいい。…だけど、ちょっとさみしくなってしまった」
「なかなか会えないからか?」
「距離の問題じゃなくてな…所詮、あの子たちは他所様の内孫だ。
会いたくても、おいそれと頻繁に会うってわけにもいかないから、さ」
「そんなに遠慮しなくてもいいじゃんか。親父にとっても孫なんだから」
「
そういうもんなのさ」
「ふーん」
「だからお前に期待してんだよ、俺は(笑)」
「ん?」
「いつになったら俺は内孫持てるんだ?(笑)」
「孫って…その前に嫁さん見つけなきゃいけないだろが」
「そうだよ、それだよ。見つけたのか?」
「………」
「なんだよ、浮いた話のひとつもないのか?」
「………
あるよ」
「おお!?やっとこさ彼女できたか!!」
「いや、彼女ってわけじゃ…。ただ…好きな人がいるんだ」

降ってわいたキッカケに俺は飛びついた。
思いつくまま、恵子ちゃんのことを語った。

700: :2006/04/29(土) 16:07:26 ID:

彼女との出会い。
彼女の人となり。
彼女に告白されたこと。
それを無碍にしたこと。
そして、
彼女が母の縁者であること。

何もかもを素直に、ありのまま、夢中でしゃべった。

気がつくと、親父はじっと下を見つめながら黙りこくっていた。

(あ………)

やはり…ダメか。

親父の表情は見えなかったが、
突きささる沈黙に俺の口も動くのをやめてしまった。

その瞬間だった。

どん、と俺の頭に鈍い痛みが走った。

親父が、身を乗り出して俺の頭にゲンコツを落としていた。

拳を引き、無言で親父が俺をにらみつけている。

何が起こったのかはわかっていた。
母の縁者に惚れた俺に、親父が激怒したのだ。

…と、思っていた。

しかし、ようやく吐き出された親父の言葉は、俺の理解したものとは違っていた。

701: :2006/04/29(土) 16:08:23 ID:

「ばかやろが…お前はその歳になってもまだ、俺のゲンコツが欲しいのか!」
「………」
「お前の結婚は、お前の問題だろ?好きにすりゃいいだろうが!!」
「………え?」
「
それを…俺と母さんのことで…そのコの気持ちまで踏みにじるなんて…! …お前も俺も、情けねぇ!」

親父は怒っていた。
けれどそれは、優しい怒りだった。

「俺や母さんのことを心配してくれたお前の気持ちはうれしい。
だけどな、それは親孝行じゃあ、ないぞ。
お前は、お前のことだけを一番に考えてくれればいい。
お前が選んだコなら心配はない。
こう見えても俺、お前のこと信用してるんだぞ(笑)」

鼻の奥が痛い。瞼が熱くなった。

「健吾、しあわせになってくれ」

とどめ。もう耐えられない。

「泣くな 馬鹿。いい歳こいて(笑)」

小さな店でよかった。
この顔はとてもじゃないが人前に出せない。
がびがびになった顔を隠しながら店を出た。

702: :2006/04/29(土) 16:09:14 ID:

親父のアパートまで数百メートル、ふたりで歩いた。
さっきの余韻が抜け切れなくて、俺は一言もなかった。
親父は口笛を吹いていた。

ふいに、親父が俺の頭を撫でた。

「な、なんだよ!?」
「痛かったか?」
「ん?ああ、…ああ(笑)」
「ふふん…ばかやろ(笑)」
「うん(笑)」

「母さんも、賛成してくれたんだよな?」
「うん。同じようなこと言われた」
「そうか。…今度、彼女に会わせろよ」
「うん、もちろん」
「…といっても、もうお前、彼女に見限られてるかもしれんな(笑)」
「やっ、やなこと言うなよ!」
「ふふ
。早めに会えよ」
「うん」

親父がまた口笛を吹き始めた。

親父が部屋に入っていくのを見届けた後、表通りに出てタクシーを拾った。
乗り込むや否や、どっと倦怠感が押し寄せる。
だが心地よい気だるさだった。
そっと、頭のてっぺんに手を当てた。

…膨らんでる。

恐るべし、アーノルド。
もうすぐ還暦を迎えるというのに。

じわじわと、小さな痛みを自覚した。
笑いがこみ上げてくる。

(30過ぎて…親父の鉄拳制裁を食らうとはな)

高校の時以来のこの痛みが、大切なものに思えた。

703: :2006/04/29(土) 16:10:05 ID:

太田家に帰ると母がまだ起きていた。
待っていたのだと思う。

「おかえり。…お父さん、元気だった?」
「うん」
「そう。…で?」
「話 したよ」
「うんうん。それで?」
「怒られた。んで、凹られた」
「え!?」
「俺のことなんて心配してんじゃねぇ、って」
「ああ…なんだ、びっくりしたぁ。…そっか。そっかぁ!」

緊張していた母の顔が緩んだ。

「よかったねぇ」
「うん…ありがとな」

母が笑顔で頭を振った。

出されたお茶をしみじみすすっていたら、母がいつもの軽口に戻った。

「でもさ」
「うん?」
「恵子ちゃん、もう彼氏できてたりして(笑)」

親父と同じようなことを言う。

いや、そんなこと………あり得る、あり得るよなぁ。

にわかに不安感が湧いてくる。
無意識に湯呑みを握り締めていた。

704: :2006/04/29(土) 16:10:53 ID:

翌日は昼近くに起きた。
お父さんも母もとっくに仕事に出ていた。
居間のテーブルの上に母のメモ書きがあった。

『ごはんはテキトーに』

考 えてみれば今日はまだ平日。休みなのは俺だけ。
ちょっとした解放感に、スキップしながら台所へ行った。
冷蔵庫を漁り、朝飯にありつく。ついでに缶酒も失敬。

昼間のアルコールはよく効いた。
寝転がってテレビを観ながら、贅沢な閑暇を味わった。
ふと女性タレントに目がいった。
以前から恵子ちゃんに似ていると思っていたタレントだった。

親 父と母の予言(?)が脳裏をよぎる。

がばっと跳ね起き、携帯を手にとった。

(昼休みだよな)

1…2…3…4…。
10コールを数えても恵子ちゃんは電話に出なかった。
留守電に繋がる。
けれどメッセージは吹き込まなかった。

1時間後。
また恵子ちゃんの携帯に電話した。

(もしかしたら、休憩は1時からかも)

あきらめが悪い。
しかし結果は同じだった。

缶酒は5本目に入っていた。
悲観的な考えばかりが頭に浮かぶ。
明らかに酔いが手伝っていた。

(夜にしよう)

昼寝した。

705: :2006/04/29(土) 16:12:08 ID:

気持ちの良い午後を過ごしたはずなのだが、
仕事から帰ってきた母に起こされた時は気分がすぐれなかった。
すぐにでも恵子ちゃんに電話したい気持ちを抑え、夕飯をとる。

食事の最中、携帯が鳴った。
もしやと思い、画面を見ると案の定、恵子ちゃんからだった。

「あ、職場からだ」

棒読み。
今更、母に嘘をつかなくてもいいのだが、
この時はわけのわからない恥ずかしさがあった。
足早に2階の部屋へと移る。

「昼間、電話くれたんだねー。ごめんね」
「こっちこそごめん。休憩中だと思って」
「そうだったんだけど気がつかなかった(笑)」
「そか(笑)」
「元気?そっちはタヒぬほど暑いでしょ?」
「実は今、一足早く帰省中なんだ。土曜日に同僚の結婚式があって」
「そうなんだー」
「うん。それで、日曜日までいるつもりなんだけど、それまでの間、よかったらメシでも一緒にどうかなって」
「あ、なら明後日の金曜日はどう? 土曜はウチの会社休みだから、私も
気兼ねなくゆっくりできるし」
「気兼ねなくゆっくり飲めるし、の間違いだろ(笑)」
「そうそう…ってオイっ!(笑)私最近、お酒飲む量少なくなったんだよお」
「年のせい?(笑)」
「ちーがーいーまーすー(笑)耳の薬のせいだもん」
「え?耳って…ずいぶん前に三半規管の病気になったってやつ?
あれって治ったんじゃなかったの?」
「
ううん。今もバリバリ継続中(笑)」
「そっか。 以前、快方に向かってるって聞いたから、てっきり完治したのかと思ってた」
「お医者さんには完全には治らないって言われたの。まあ、たまにめまいとか頭痛がする程度で、日常生活に支障はないんだけどね。 薬を飲みつつ、一生付き合っていくって感じ」
「その薬が酒と相性悪いの?」

「飲んでもいいけど量は抑えなさいって言われた」
「なるほど」
「だから、私の目の前であんまり飲まないでね。誘惑に負けちゃうから(笑)」
「わかった。すっごく美味しそうに飲むことにする」
「わかってないじゃん!(笑)」

兎にも角にも、約束をとりつけた。

(決戦は金曜日、なんて歌があったな)

俺の大好きな言葉“悶々”がもうすぐ消滅する。
どちらに転ぶにせよ、だ。

706: :2006/04/29(土) 16:12:59 ID:

インターバルのように空いた木曜日。
あの日、俺は何をしていたのだろうか。
最後の“悶々”を楽しんでいたのだろうか。
思い出せない。
だが確実に24時間は過ぎ行き、俺にとって生涯忘れえぬ金曜日が訪れた。
707: :2006/04/29(土) 16:13:44 ID:

恵子ちゃんの仕事が終わってからということで、
待ち合わせは夜8時に設定していた。

家にいても余計なことを考えるばかりなので、日中から街に出た。
しかし、何をしていればいいのか思いつかない。

映画館に行 ってみた。
ストーリーがまったく頭に入らず、1800円をドブに捨てた。

本屋に入った。
知らず知らずのうちに恋愛ハウツー本を手にとっていた。
しかもよく見ると女性向けだった。

喫茶店で休んだ。
ぼーっと、恵子ちゃんのことを考えた。
…なんだよ。
これじゃ家にいるのと同じじゃないか。

708: :2006/04/29(土) 16:14:40 ID:

7:00PM
散々、街を彷徨ったのに約束の時間までまだ一時間もある。

…酒の力を借りよう。
決戦に備えて景気づけにもなる。
友枝とあの時行ったバーへと向かった。

開店まもない店内には客の姿はなかった。
いつものバーテンが「お久しぶりです」と俺を迎えた。

「待ち合わせ前なんで、一杯だけもらえますか?」
「はい。何になさいます?」

しばし考える。

思いつくのはひとつしかなかった。

「この間いただいた“両想い”、アレ…いいですか?」

カップルにしか出さないというカクテル。
しかしバーテンは
「憶えていてくださって、ありがとうございます」
快く応じてくれた。

淡いピンク色の水中を、ビーズのような気泡が踊っている。

今日は自分のために飲む。
軽く願掛けした。

その様を、バーテンが微笑みながら見守っていた。
なんだか気恥ずかしい。

ちびりちびり、じっくりと時間をかけて飲み干した。

「次回は2つ、お出ししたいです」

店を出る時にかけてくれたバーテンの声が、とても心強かった。

709: :2006/04/29(土) 16:15:27 ID:

8:00PM
時間ぴったりに、恵子ちゃんは待ち合わせ場所へと現れた。

久々に見る恵子ちゃんのスーツ姿。
… タイトスカートって、いいなぁ。

「行きたいお店があるの」

恵子ちゃんの先導で向かった店は、初めてふたりで食事をしたあの店だった。
ひとり、気分が高揚する。
なんだか恵子ちゃんにお膳立てをしてもらっているようだ。

その日のオススメのワインをオーダーし、乾杯した。
俺はその杯に、またふたりでここに来れたことへの祝杯を重ねた。

「電話ではああ言ったけど、気を遣わないで飲んでね」

彼女の気遣いが愛おしかった。

だが今夜は俺も酒は控えるよ。
飲んだくれてる場合じゃないんだもん。

今日ここで、すべてが決まる。終わる。終わらせる。

しかしそんな意気込みも束の間、一時間も経つ頃には俺の心は苛立ち始めた。

710: :2006/04/29(土) 16:16:11 ID:

ふたりで話しているとどうしても馬鹿話で盛り上がってしまう。
望む方向に会話を持っていけない。
なんとも色気のない話ばかりが続いた。
楽しいんだけど…いや、楽しいからこそタチが悪い!

「デザートでも頼もっか」

彼女に品書きを渡し、無理矢理、会話を中断した。
流れに変化をつけようと必タヒだった。

“デザート作戦”は功を奏し、恵子ちゃんはデザート選びに夢中になった。
ようやくシンキングタイムを手に入れた。

…しかし、どうしたものか。
切り口がわからない。
大体、こんな公衆の面前で女性に告白したことなんて今まで一度もない。
気の利いた言葉がひとつも浮かんでこない。

どうしよう。
どうしよう。

「はい。私は決まり。健吾君はどれにする?」

時間切れ。

「じゃ、じゃあ、俺は~」

“イチゴとバナナの井戸端会議”なるものを注文した。

711: :2006/04/29(土) 16:16:57 ID:

あれほど時間の観念がなくなった日はないだろう。
気づくと11時をまわっていた。

「そろそろ出よっか。終電も近いし」

おとなしく従った。

だがあきらめたわけではない。
駅までの道のりは徒歩10分。
当初の予定とは大幅に異なってしまったが、この際、四の五の言ってられない。
歩きながら、だ。

「あのね」

うわっ。

…恵子ちゃんに言葉を盗られた。

「実は、ね」

ここまでは俺の言いたいことと一緒だった。

「今、交際申し込まれてるの」

噴き出した脂汗が夜風に撫でられた。
(ああ、気持ちいいなぁ)
などと考えていた。

712: :2006/04/29(土) 16:17:59 ID:

「…あ、相手は?」

現実に向き直った。

「同い年の、会社の人。職場でよく遊びに行くメンバーのひとり」
「じゃ、お互いによく知ってる仲なんだ…」
「うん 」
「…恵子ちゃんは、その人のことどう思ってるの?」
「うん…すごく、いい人。ただ…」
「…ただ?」
「結婚を前提にって、言われたの」

熱帯夜、俺だけが凍りついた。
どうにか、口だけ解凍する。

「そ、そりゃ余程、恵子ちゃんのことが好きなんだねぇ」
「………」
「
それで…ど、どうなの?」
「なにが?」
「い、いや、なにがって…悪い気はしないんでしょ?その人のこと」
「…わかんない。 今まで仲の良い友達だと思ってたから…そんな風に見
たことなくて」
「そうか…」
「ねぇ、健吾君。 男の人って、付き合う前からいきなり結婚を意識
するものなの?」
「そんなの…男も女も関係ないと思うよ。 恵子ちゃんとその彼の間には、今まで身近に接してきた時間があったわけで、 その中で彼が、恵子ちゃんを『この人だ!』って、感じたということでしょ?
付き合う前の時間だけで、彼には充分だったんじゃないかな?」

なにを真剣にアドバイスしてるんだろ、俺。

「男女の仲になる前に…ってのは少し性急かもしれないけど、 恵子ちゃんの良さに気づいたんだから、その彼、見る目ある人だと思うよ」
「やだなぁ、いつもの健吾君らしくないよ(笑)オチがないじゃん(笑)」
「いや、冗談じゃなくて(笑)」

本心なんだ。

713: :2006/04/29(土) 16:19:00 ID:

「ありがとね、健吾君」
「いや…大したコト言えてないけど…」
「ううん…そうじゃなくて。…ありがとう」

?

どういう意味か聞きたかったが、すでに改札の前まで来ていた。

「送ってくれてありがと!ここでいいよ」
「うん…」

最終電車が来るまでまだ5分くらいあった。

引き止めたい。
何か話題は………何か話題を…。

「じゃ、健吾君。さよなら」

俺の言葉は、待ってはもらえなかった。

… これで終わりか?

改札の向こう、恵子ちゃんが笑顔で手を振っている。

………。

あわててSuicaを取り出し、改札に叩きつけた。

714: :2006/04/29(土) 16:19:53 ID:

振っていた手を止め、恵子ちゃんがキョトンと俺を見ている。

「送る。ホームまで」
「え? いいよぉ(笑)」
「いいから…いいから…」

恵 子ちゃんが眉をひそめて俺を見つめた。

ホームには最終電車がもう止まっていた。
時間調節しているようだ。

恵子ちゃんは電車の中。
俺は白線の上。

「じゃあ、これでほんとにさようなら(笑)」

さようなら、って、こんなにさみしい言葉だったんだ。

発車のアナウンスが、俺の背中を押した。
俺は電車に飛んだ。

すぐにドアは閉まった。
口をポッカリ開けて、恵子ちゃんが唖然としている。

「乗っちゃった(笑)」
「な、健吾君、なにしてるのぉ!?」

恵子ちゃんの口を見た。

「ごめん、恵子ちゃん。次の駅で、降りてくれ」

恵子ちゃんの口が「うん」と言ってくれた気がした。

715: :2006/04/29(土) 16:20:54 ID:

次の停車駅までのほんの数分間、恵子ちゃんは俺の顔をずっと見ていた。
俺も恵子ちゃんを見つめ、決して負けなかった。

扉が開き、トン、と足をホームに下ろした。
すかさず振り返る。
ちゃんと 恵子ちゃんも後に続いていた。

電車が出発するのを待つ。
電車が去った。
他の乗客がホームからいなくなるのを待つ。
いなくなった。

恵子ちゃんはずっと黙っていた。

「恵子ちゃん」
「…はい」
「さっきの彼氏の話、断ってください!」
「………」
「俺、恵子 ちゃんのことが、好き、です」

恵子ちゃんが俺を見上げている、気がした。
震える四肢。

「 もし、恵子ちゃんが俺のことを、ま、まだ、想ってくれてるなら、
お、俺と…つきあ…てく…さい」

最後のほうの言葉は恵子ちゃんの言葉でかき消された。

「…自惚れてるなぁ(笑)」

絶句。
多分、金魚のような顔をしていたに違いない。

うわーうわーうわー。
やっちまった。やっちまったよ、おい。
とんだ勘違い野郎だったんだ、オレ…。

「でも」

視線を泳がせていた俺の鼻に、恵子ちゃんの匂いが流れ込んできた。

「ずっと…自惚れててください」

恵子ちゃんが俺の腰に両腕を回していた。

716: :2006/04/29(土) 16:21:40 ID:

サラサラとした恵子ちゃんの黒髪が、俺の右手の中にある。
砂糖菓子のように容易く砕けそうな肩が、俺の左手の中にある。

俺は恵子ちゃんを抱きしめていた。

恵子ちゃんの匂いが俺をくすぐる。
出会った時から変わらない、いつもと同じ香り。
両腕に、もっともっと力をこめたくなる。

「ごめんねぇ。そろそろ、ホーム閉めたいんだけど(笑)」

ふたりとも、ビクッとなった。
すぐそこで、駅員のおじさんが笑っていた。

お互いにお互いの顔の赤さを認めつつ、

「す、すみませんでした!」

ふたりで改札まで駆けた。笑いながら。

717: :2006/04/29(土) 16:22:48 ID:

改札を出るとすぐ、堰を切ったように俺は再び恵子ちゃんを抱き寄せた。
今度はもっとちゃんと、もっとやさしく。

10分。
灯りも消えた駅の入口に、ふたり、佇んだ。

このままいつまでも恵子ちゃんの髪を撫でていたかったが、
思い切って、身体を離した。

恵子ちゃんが俺を見上げた。

たまらず、また抱き寄せてしまった。

三度、恵子ちゃんの匂いを思いっきり吸い込んだ。
くすくすと、恵子ちゃんが笑った。

「すっごくクンクンしてるね(笑)」
「うん( 笑)恵子ちゃんの匂い、好きだ」

後から聞いたのだが、アリュールという香水だそうだ。

飽きることなどなかったが、さすがに今度はちゃんと身体を離した。
代わりに恵子ちゃんが指を絡めてきた。

つないだ手を子供のように振りながら、ふたり歩き始めた。

「…ごめんな。変なところで降ろしてしまって…」

ようやく頭が冷静に考えることを思い出した。

「ううん…うれしかったから…いい」
「俺もすごくうれしい」
「…照れるね(笑)」
「照れる(笑)」

照れてばかりもいられない。

「どうしよ?また街に戻ってどこかで飲む?」
「うーん…」

恵子ちゃんが俺の顔を覗き込んだ。

「あのね。敏夫叔父さん(お父さん)のとこ、行きたい」

そう言うや否やすぐに顔を伏せた恵子ちゃんの耳は、
暗がりでもはっきりとわかるくらい、真っ赤だった。

「…わかった。行こ!」

すぐさまタクシーを拾った。

718: :2006/04/29(土) 16:23:47 ID:

太田家にはまだ灯りがともっていた。
明日はお父さんも母も休みだから夜更かししているのだろう。
玄関の鍵は開いていた。

「ただいま!」

ことさら元気に扉を開けた。
出迎えた母が俺たちふたりを見て目を丸くした。

「ふたりで飲んでたんだ。調子にのって、終電間に合わなくしてしまって」

とってつけた言い訳。
だが母は気にするでもなく、うれしそうに恵子ちゃんを中へと誘った。

居間に行くと、お父さんがテレビ画面に張り付いていた。
どうやらこの夫婦はテレビゲームに熱中していたらしい。
…このふたりも来年、還暦を迎えるのだが。

お父さんも母同様、俺たちを見て驚いた。
俺は同じ言い訳をした。

「今夜は泊まってもらいますから」

母が恵子ちゃんの実家に電話を入れてくれた。

4人で茶を飲む。

無言。

だがお父さんも母もニコニコと俺を見ている。
恵子ちゃんから湯気が出そうだった。

(…バレバレじゃないか(笑))

もとからそのつもりだ。
用意していた台詞を口に出した。

「俺たち、付き合うことにしました」

お父さんと母の顔がパーッと輝いた。

「おお!そうかぁ、そうかぁ」

お父さんがはしゃいでいる。

「よかったねぇ、よかったねぇ」

母がティッシュを鷲掴みにして顔を拭っていた。

恵子ちゃんは恥ずかしそうに湯呑みを弄んでいた。

719: :2006/04/29(土) 16:24:37 ID:

翌朝早くに恵子ちゃんは家へと帰っていった。
お父さんの車を借りて送るつもりだったのだが、

「午後からお友達の結婚式でしょ? それまで休んでて。昨日は遅くまで起きてたし」

という恵子ちゃんの言葉に甘えさせてもらうことにした。

彼女が帰った後、恵子ちゃんの実家に電話を入れた。
恵子ちゃんの母・浩美さんが出た。

「すみません。昨晩は恵子ちゃんを連れまわしてしまって」
「いいええ。健吾君なら安心。また誘ってあげてね」

安心…か。

(早いうちに恵子ちゃんの両親にも挨拶しなきゃな)

少しも気は重くはならず、むしろその日を焦がれた。

720: :2006/04/29(土) 16:25:23 ID:

昼前。
式から参列することになっていたので、早めに式場へと向かった。
郊外の大きなレストランが式場だった。
レストランウェディングというやつだ。
東京
などでは珍しくないが、まだまだこの街では目新しい。

控え室で待っていると、友枝が顔を見せた。
俺の姿を認めるや、小走りに駆け寄ってくる。

「おおおつかさぁぁぁん」

予想を裏切らず、友枝はガチガチに緊張していた。
真夏とはいえ、空調のきいた室内なのに、燕尾服の襟元が汗でびっしょりだ。

「だいじょうぶかぁ?」
「気持ち悪いです。吐くかも」
「緊張してるだけだよ。しっかりせい(笑)」
「ダメです。吐いてきます」

そそくさと友枝が手洗いへと消えた。

どうやら式に参列するのは新郎新婦の友人がメインのようで、
会社関係は俺と上司だけだった。
上司と話しているのも飽きた俺は、式場内を当て所もなくうろついた。

721: :2006/04/29(土) 16:26:27 ID:

一際賑わっている部屋があった。
覗いてみると、女友達に囲まれている芽衣子さんの姿があった。

純白のウェディングドレスが、窓から差し込む陽光にやわらかく包まれていた。

美しい。

この姿を見て、ため息の出ないヤツなどいないだろう。

見惚れていたら、芽衣子さんも俺の姿に気づいた。
何か言 いたげに、首を伸ばしている。
近くに行きたかったが、
デジカメや携帯を手に群がる女性たちに気圧され、
(また後で)
と手を振り、部屋を出た。

廊下で友枝と再会した。
文字通りスッキリとした顔だった。

「大塚さん!芽衣子さん、もう見ました?」
「うん」
「綺麗でした?綺麗でした?俺、まだ見てないんです」

軽~く、友枝の頭をひっぱたいた。

「ああっ、セットが!セットが!なにするんスか!?」
「さっさと行け(笑)」

芽衣子さんの部屋の方向に、友枝をドンと押してやった。

やっぱりというか、式の間中、ずっと友枝は泣いていた。
芽衣 子さんはこれ以上ないくらいやさしい顔で、友枝の顔にハンカチを宛がっていた。
ふたりの姿に、参列者から微笑みがもれた。

(でも…俺も泣いちゃうかもしれないな)

ブーケを投げる芽衣子さんの姿に、未来をダブらせた。

722: :2006/04/29(土) 16:27:28 ID:

2次会は街中のレストランバーで行われた。
披露宴から合流した同僚たちと、友枝を囲み、冷やかす。
いまだ興奮冷め遣らぬ体の友枝だったが、
酒と時間がいつもの彼を呼び覚ましていった。

「大塚さぁん、今日は何の日か知ってますう?」

しな 垂れかかっていた友枝が顔を近づけてきた。

「お前が裏切り者になった日(笑)」
「なんスか裏切り者って!大塚さんもさっさと独身にオサラバしなきゃダメっスよ」
「わかってるよぉ。早くお前のお仲間になりた~い(笑)」
「んふっふっふ」
「なんだぁ?気色わりーな」
「だいじょーぶ。大塚さんも結婚できます」
「他人事だと思って(笑)」
「今日はね、大安じゃないんスよ」
「そーなの?…でも、だから?」
「友引っス」

友枝が俺の肩をバンバン叩いた。

「友引に結婚式すると、来てくれた人も結婚できるんですって。 感謝してくださいよう! 大塚さんのために、わざわざ大安避けて今日にしたんスからぁ」
「そっか。ありがとな」
「てことで、今日はがんばってください!芽衣子さんの友達 いっぱいきてるんスから」

友枝。
もう、がんばらなくてもいいんだぜ、俺。

723: :2006/04/29(土) 16:28:36 ID:

やがて友枝が友人たちと余興を披露し始めた頃、
友人や同僚から解放された芽衣子さんが俺のもとへとやってきた。

「だいじょうぶ?疲れたんじゃない?」
「うん、だいじょうぶ。健吾君、今日は本当にありがとう」
「 いやいや。…あ。こっちこそ、ありがと(笑)」
「え?」
「わざわざ“友引”を選んでくれたんだってね。聞いたよ(笑)」
「ああ(笑)すっごく彼こだわってたの、友引に。
『縁起でもかつがないと大塚さんは結婚できない!』って(笑)」
「失礼な(笑)」
「ねぇ(笑)」

友枝を見、ついで芽衣子さんを見た。

「…いいヤツだよな」
「でしょ?」

芽衣子さんのノロケがうれしかった。

「健吾君、これ…」

芽衣子さんが小さな紙包みを差し出した。
中には黄色い花が一輪入っていた。

「ブーケに使った花。メランポジウムっていうの」

芽衣子さんが花をやさしくつまみ、胸のポケットチーフにそっと挿してくれた。

「健吾君にあげたかったんだ」

“友引”と“メランポジウム”

ふたつの想いに応えたいと思った。

「芽衣子さん。
俺もねぇ…芽衣子さんに招待状を送れると思う。
まだまだ先の話になると思うけど…」

口をついて出た自分の言葉に照れ、俯いてしまった。
芽衣子さんの声が1オクターブ高くなった。

「ホントに!?…じゃあ…なのね?」
「うん」
「…よかったぁ…」

ウンウンと、芽衣子さんは何度も頷いていた。
お互いに、おめでとうと言い合った。

724: :2006/04/29(土) 16:29:33 ID:

3次会は辞退した。
腕に絡まる友枝を芽衣子さんに押し付け、熱帯夜の街に出る。
時刻は8時を回っていた。

今一番聞きたい声を求めて、携帯を手にとった。

「お疲れ様」

ああ、恵子ちゃんの声だ。
もう俺はメロメロだった。
更なる欲求に引火する。

「会いたい…なぁ」
「会えるよ」

事も 無げに恵子ちゃんが言った。

「今ね、健吾君の近くにいるの。友達と会ってたんだ。今、別れたから…」
「すぐ来て!今来て!早く来て!」

電話の向こうで恵子ちゃんが爆笑していた。

「会いたい」と言えることに感動した。

(“言える”関係になったんだ)

改めて昨夜の喜びを反芻した。

725: :2006/04/29(土) 16:30:27 ID:

指定した喫茶店には恵子ちゃんが先に到着していた。
奥の席に座る恵子ちゃんに近づいていくと、自然に目が合った。
お互いの顔がほころぶ。

俺はどうしちまったのか。
十代の時のような、ふわふわとした感覚。
口にするのも恥ずかしい言葉が頭に浮かぶ。

ときめき。

落ち着いて、冷静に、衝動を抑えながら、恵子ちゃんの向かいに座った。

「お疲れ様!」

満面の笑みで俺を迎えてくれた恵子ちゃんの目線が、俺の顔から胸へと移動した。

「そのお花、最初から差して行ったの?」
「ん?ああ、違う違う(笑)もらったんだ、結婚式で」
「ああ、そっか。なるほど(笑)」
「ガラじゃないなって、思ったんだろ?(笑)」
「うん(笑)」
「(笑)メランポジウムって言ってたかな。ブーケに使った花だって」
「へぇ」
「…恵子ちゃん、これね」
「ん?」
「花嫁さんにもらったんだ」

なぜか、きちんと話しておかなくてはと思った。

「その花嫁さん、昔、俺が付き合ってた人なんだ」
「転勤の時に見送りに来てた人?」
「…憶えてた?」
「うん」

一瞬、場が凍りついたような気がして、慌てておどけた。

「や、妬ける?」

俺の馬鹿な質問に、恵子ちゃんは平然としていた。

「ううん。全然」

そして恵子ちゃんがニコリとして言った。

「だって、これからは私が健吾君のとなりにいるんだもん」

テーブルを飛び越え、恵子ちゃんに抱きつきたかった。
だが代わりに憎まれ口を言って我慢した。

「なぁんだ。つまんねーの(笑)」
「御生憎様(笑)」

726: :2006/04/29(土) 16:31:56 ID:

その後一時間ほど、恵子ちゃんとのおしゃべりを楽しんだ。
チラチラと時計を見出した俺に恵子ちゃんが言った。

「まだ時間だいじょぶだよ。今日、車で来たし」
「いや、二日連続 で俺のせいで帰り遅くするのは…。守さんたちも心配するだろうし」

伝票を持ってレジへと向かう。
のそのそと恵子ちゃんが後に続く。
視線を感じる。
じーっと 俺を見てる。
なんとかかわして外に出た。

「さて…帰ろっか」
「やだ」

間髪いれずに恵子ちゃんが遮った。
ダダをこねるなんて珍しい。いや、初めてのことだ。

「やだって…そんな(笑)」
「だって…」

「だって今日、初めてのデートなんだよ? 恋人同士になって初めての!」

そっか。そうだった。言われてみればそうだった。

恵子ちゃんが俺を見上げていた。
その瞳の中、ネオンがくるくる廻る。

2、3メートル先、隣の雑居ビルの非常階段まで恵子ちゃんの手を引いた。
向き直り、ぎゅーっと抱きしめた。

こんちくしょーめ、可愛いなぁ!

727: :2006/04/29(土) 16:32:37 ID:

俺の中で、ある考えが首をもたげた。

「恵子ちゃん」
「…ん」
「やっぱり今日は帰ろう」
「………」
「その代わり」
「?」
「俺も恵 子ちゃんの家に連れてって」

腕の中で俯いていた恵子ちゃんが、がばっと顔を上げた。

「んえっ!?」

その滑稽な声と表情に、腹を抱えて笑ってしまった。

「なに笑ってんのっ!?…ていうか、なに言ってんの!?」

目頭と痛む腹を押さえ、動揺する恵子ちゃんをもう一度抱きしめた。

「ちゃんとね…守さんたちに挨拶しときたいんだ。
お付き合いさせてもらってます、って」
「えっ !?いいよぉ、そんなの(笑)」
「まだ早い?」
「ううん、早いとかじゃなくて…。
ウチの親、
そんなに形式張ってないから、だいじょうぶだよ?」
「俺がね、ちゃんとしときたいんだ」

我ながら相変わらずアタマのカタイ奴だと思ったけれど、
ほんの一拍の後、恵子ちゃんが頷いてくれた。

728: :2006/04/29(土) 16:33:30 ID:

恵子ちゃんの家までは高速で40分程度の道のり。

ふと車窓を流れる街灯を見送りながら、
俺は自分に起こっている変化に気づいた。

なんだか恵子ちゃんとの会話に熱が入らない。
会話がブツリブツリと途切れる。
そのうち、押し黙ってしまった。

この緊張はなんだ?

まるで、結婚の挨拶に行く時のような…。

馬鹿な。
そんな 大仰なものじゃないだろうに。

何度も自分に言い聞かせたが、
一度意識した心が、頭の命令に従うはずもなかった。

729: :2006/04/29(土) 16:34:29 ID:

「はい。着きました、と」

エンジンを止めた恵子ちゃんが、俺をまじまじと見つめている。
右顔面にその視線を感じてはいたが、俺は彼女に向き直ることも出来ず、
フロントウインドウに熱い視線を投げ続けた。

「だいじょうぶ?」

看破されていることにたじろぎ、うろたえ、虚勢をはった。

「な、なにが!?…さ、さあ、行こう!」

恵子ちゃんに一瞥もくれず、玄関へとまっすぐ進んだ。

しかし…扉を開けられない。チャイムに手が伸びない。

恵子ちゃんが一歩後ろで俺の様子を見ていた。
振り向き、懇願した。

「…ごめん、開けてぇ」

恵子ちゃんが、手で口を押さえながら笑いをかみコロしている。
彼女の気が済むまで俺は待った。

ようやく笑いを終わらせてくれた恵子ちゃんが、
ゴホンとひとつ咳払いをして扉を開けた。
緊張復活。

「ただいま~」

出迎えたのは浩美さんだった。

「あら、健吾君!?恵子を送ってくれたの?」
「い、いえっ、運転してたのは恵子ちゃんで、あの、その」
「とにかくあがって」

もう堪えられないとばかりに恵子ちゃんが吹いた。
ちょっと恵子ちゃんが小憎らしくなった。

居間に通され、茶を出された。
石 像のように固まっている俺を見て、相変わらず恵子ちゃんは肩を震わせている。
浩美さんが台所に行った隙に、軽く恵子ちゃんの首を絞めてやった。
またも恵子ちゃんが吹き出した。

730: :2006/04/29(土) 16:35:36 ID:

そこへ、風呂上りの守さんが姿を現した。

「おお、健吾君!よく来たよく来た!」
「す、すみません、またこんな遅くまで恵子ちゃんを引っ張りまわしてしまい…」
「うんうん。これからも誘ってやってね」
「は、はい。もちろんです…」

沈黙には到底耐えられそうにない。
俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「それで…あ、あの俺、
恵子ちゃんとお付き合いさせていただきたくて…今日…来ました」

伏せていた目を恐る恐る上げ、守さんと浩美さんを見た。
ふたりともキョトンとしていた。

「え…いや、ずっと前から付き合ってたんじゃないの?」

守さんの言葉に驚いた。口から何かが出ちゃうんじゃないかと思った。

「いやぁ、てっきりそうなんじゃないかと思ってたんだけど。
でもふたりの口からちゃんと聞くまでは、余計な口は挟まないようにしようって、 私ら話してたんだよ」
「え…いえ、正式には昨日からで…」
「ああ、そう!そうかぁ、そうなのかぁ」

守さんと浩美さんが微笑みを交わしていた。

「 これからもよろしくね、健吾君」

すぐには頭の整理がつかず、恵子ちゃんを見た。
あんぐりと恵子ちゃんは口を開け、呆けていた。
俺の視線に気づき、恵子ちゃんも俺を見る。
ふたりの口に笑みが浮かび、やがて大笑いした。

(やった!やった!やった変換!)

ひとりだったら、踊り狂っていたと思う。

731: :2006/04/29(土) 16:36:37 ID:

守さんも浩美さんもしきりに泊まることを勧めてくれたが、丁重にお断りした。
かろうじて電車もあったし、なにより『厚かましいヤツ』と思われたくなかった。
守さんたちがそんな人たちではないことはよくわかっていたが、
少しでも良い印象を与えたかったのだ。
相変わらず些細なことを気にするヤツだった。

再び恵子ちゃんの車に乗り、駅に向かう。
車が走り出すと同時に、ふたりとも口を揃えて言った。

「… びっくりしたねぇ」

また笑い合った。

落ち着き、余裕を取り戻した頭が考えた。

(あのまま…“結婚を前提に”って言っても、よかったんじゃないだろうか?)

…いやいや、いくらなんでもそれはまだ早いな。
恵子ちゃんの気持ちもあるし。

心の中でかぶりを振っていたら、恵子ちゃんがまた俺の心を見透かした。

「なんだか…結婚の挨拶みたいだったねぇ(笑)」

驚き、恵子ちゃんを見る。

俺の視線に照れたのか、
自分の言ったことに照れたのか、
恵子ちゃんはあわてて顔を右ななめ前方へと向けた。

そのさまに俺までも照れてしまい、俺も左ななめ前に顔を向けた。

732: :2006/04/29(土) 16:37:43 ID:

倦怠期のカップルのように、互いに別の方向を眺めるふたり。

しばし間をおき、振り絞る。

「でも……いつか、…いや………いずれは…」

そうなったらいいなぁ…と、言葉を続けようとしたが、

「ま、まぁ、先のことはわからないし…
…恵子ちゃんも…恵子ちゃんが…よければ…」

歯切れの悪い言葉が続く。
だが恵子ちゃんの一言が、終止符を打った。

「早く 結婚してくれ(笑)」

首がねじ切れるほどの勢いで恵子ちゃんを見た。
彼女は相変わらず明後日の方向を向いている。

「ほ、ほら、私も若くないし…もうすぐ35歳だし…
あ、ほら35って、四捨五入すると40なんだよぉ…だから…だから…」

慌てて取り繕 った言葉に、恵子ちゃんの照れが見えた。

こみあげる、今日、何度目かわからない高揚感。

「恵子ちゃん、車止めて」

なぜ?とも聞かず、言われるまま恵子ちゃんは車を路肩へと止めた。

733: :2006/04/29(土) 16:38:29 ID:

止まるや否や、
いまだにそっぽを向いている恵子ちゃんの顎に、そっと手を添えた。

くるりと彼女が俺に向いた。

刹那。

彼女のくちびるは俺のものに。
俺のくちびるは彼女のものになった。

734: :2006/04/29(土) 16:39:20 ID:

ゆっくりと、長く。

呼吸など無ければいい。

そうは思ったが、限界もある。
磁石を引き剥がすかのように離れた。

彼女の口から吐息がもれた。

たまらず、またくちびるを寄せた。

…結局、3回それを繰り返し、4回目にはふたりで笑い出した。

「俺って、しつこいなぁ(笑)」
「私も… しつこいよ」

5回目は恵子ちゃんのほうからだった。

735: :2006/04/29(土) 16:40:33 ID:

シフトレバーをはさんだ無理な体勢で抱き合っていた。
心とは裏腹に、無理矢理、身体を離してお互いの席に戻った。

と、膝に花びらが一枚落ちた。
見ると胸のメランポジウムがぐったりしていた。

抜き取り、恵子ちゃんの小さな手のひらに置いた。

「あげる」
「ありがとお」

恵子ちゃんが両手で花を包んだ。

「…明日、帰っちゃうんだよねぇ」
「うん」
「…あーあ…」
「近いうちにまた帰ってくるから」
「…うん、待ってる。でも無理しちゃダメだよ?」
「ありがと」
「私も今度そっちに行くから!健吾君の住んでるトコ、見たい」
「いっぱい、見せたいものがあるよ」
「楽しみだな~」

無理して明るく振舞う恵子ちゃんがとてもいじらしかった。
身体が壊れてしまわないように、力加減をして抱きしめるのはとても難しかった。

「明日、見送り行くね」

腕の中の恵子ちゃんの声はか細かった。

736: :2006/04/29(土) 16:41:36 ID:

翌日。
太田家での朝食の席で、昨晩田中家に挨拶に行ったことを報告した。
お父さんも母も、微笑みながら俺の報告を聞いてくれた。
よろこぶふたりの顔を見て、
自分が満ち足りていることを、温かなメシと一緒に噛みしめた。

いつものようにお父さんの車で駅へと向かった。
駅に着くなり、ふたりには悪いが早々に帰ってもらう。
恵子 ちゃんが待っているのだ。
秘密にする必要はないが、やっぱりまだ照れくさかった。

駅ビルの喫茶店で恵子ちゃんと落ち合った。
今日も笑顔で俺を迎えた恵子ちゃんだったが、
時折、少しだけ浮かない表情を見せた。

(俺と離れるのが辛いのかな?…んもう、愛いやつめ)

などと気を良くし、恵子ちゃんの手を握る。

(え…?)

その手の熱さに驚いた。

「恵子ちゃん!熱あるんじゃないか!?」
「あ、ちがうのコレ。薬の副作用」

耳の薬を飲むと一時的に熱や軽い頭痛が起こるのだという。

「今日は朝ごはんの時に飲むの忘れちゃったから、ついさっき飲んだの。
だいじょうぶ。あと30分もすれば収まるから」

眉が八の字になっているのに、精一杯の笑顔で俺に答えている。

これまで病気で辛そうにしている恵子ちゃんを見たことなどなかった。
もしかしたら、俺の前で我慢していたこともあったのかもしれない。
そう思うと、とにかく何かしてあげたくなった。
だから彼女のソファに並んで座った。

「俺に寄りかかってなよ」

よくファミレスなどで当人たちしかいないのに並んで座っているカップルを見ると、
(バッカじゃねーの)
などと胸の中で悪態をついていたものだが、この時は自分も馬鹿のひとりになった。

髪を撫でるたびに恥ずかしさは消えた。

案外、こういうのも悪くないな。
…いや、けっこう好きかも。

737: :2006/04/29(土) 16:43:11 ID:

すっかり元気を取り戻した恵子ちゃんはホームまでついてきてくれた。

列車がホームに入ってくるまで15分。
相変わらずこの時間はイヤなものだ。
芽衣子さんとの時にも味わった、やるせない、切ない気持ち。
それを誤魔化そうと話し続けても、
浮かぶ言葉は虚ろで他愛のないものだけだった。

ふと見ると恵子ちゃんは無言で俯いていた。

あ、と思い、
「だいじょうぶ?また具合悪くなった?」
と、彼女の顔を覗き込んだ。

泣いてた。

初めて見る、恵子ちゃんの泣き顔。
言葉も出ず見つめた。

「さみしいの。さみしいの」

感情が加速していくのが見て取れた。

「ごめんね…ごめんね…」

嗚咽まじりに何度も謝る恵子ちゃんを抱き寄せた。
彼女の震えを止めてあげたくて腕に力をこめた。

新幹線のデッキに乗り込んでからも、恵子ちゃんの手を放せなかった。

このまま、かっさらってしまおうか?

簡単 なことだ。この腕を引くだけ。

しかし未練を断ち切ったのは恵子ちゃんのほうからだった。
絡めた指をほどき、バイバイとその手を振る。
かろうじての笑顔。
言葉はない。

ドン、と無慈悲な音を立ててドアが閉まった。
あわてて小窓から恵子ちゃんを探す。
彼女の顔はまたクシャクシャになっていた。

そんな顔しないでくれ。
こっちまでつられてしまうじゃないか。

なんてことない。
しばしの別れなのだ。

自分に言い聞かせ、笑顔で彼女に手を振った。

738: :2006/04/29(土) 16:44:03 ID:

横浜に戻ったその日の晩、恵子ちゃんからメールが来た。

「無事に着いたかな?
昼間はごめんね。突然泣いたりして。
いい歳して自分でも呆れます(笑)
健吾君と離れるかと思ったら、急にさみしくなってしまったの。
でも今はだいぶ落ち着きました。
今とても健吾君の声を聞きたいけれど、聞いたらまた泣 いてしまいそうなので、 今日はメールだけで我慢します。電話しちゃやだよ?(笑)」

俺も自信がないよ。
きっととんでもないことを口走ってしまいそうだもの。

なんとかメールだけにした。
5回も6回も送ったが。

739: :2006/04/29(土) 16:44:48 ID:

仕事が無い日は夜に電話を、
夜勤の日は昼間にメールをした。
毎日、彼女の声や文字に触れた。

仕事が忙しくても苦にならなかった。
短気な性格なのに腹を立てることがなくなった。
せっかちな性格なのに駆け込み乗車もしなくなった。
毎晩 のように、良い夢ばかり見た。
気づくといつも笑顔だった。

740: :2006/04/29(土) 16:45:40 ID:

「作品できたの!」

その日の恵子ちゃんの声はいつにも増して弾んでいた。
毎年4月に開催される書展の作品が仕上がったのだという。

「ずいぶん早く完成したんだね~」
「うん!びっくりするほど筆がすすんで。
今までで最高傑作だと思う。もちろん自分の中でだけど(笑)」
「へぇ。今回の題材は?」
「んー…内緒(笑)」
「なんじゃそりゃ(笑)」
「知りたかったら、来年一緒に観に行くこと!」
「そりゃ絶対行けるようにするけど…なんだよ、気になるなぁ」
「健吾君」
「ん?」
「ありがとう」
「?なにが?」
「あのね、今回の作品つくってる時、心がすごく落ち着いてたの。
今まで無いくらいに。
それはね、きっと健吾君のおかげなんだと思う」
「俺、なんかした?」
「ううん。なんにもしてない(笑)」
「
ワケわかんねぇ(笑)」

俺も君にお礼が言いたかったんだ。
俺は毎日、笑顔でいられるよ。

そんな照れ臭いこと言えやしなくて、別の話題に入った。

「9月になったらそっち帰るね」
「だいじょうぶなの?」
「うん、休みとる。デートしよう。ちゃんとしたデート(笑)」
「うん!(笑)」
「できれば8月中にもう1回くらい帰りたかったけど、仕事忙しくて…ごめんな」
「ううん!うれしい」

その後はあれこれとふたりでデートの予定をたてた。
気づけば電話は4時間にも及び、ふたりとも惜しみつつ受話器を置いた。

741: :2006/04/29(土) 16:46:48 ID:

9月といえば恵子ちゃんの誕生日でもあった。
8月最後の休日、プレゼントを物色しに街に出かけた。

恋人へのプレゼントほど選んでいて楽しいものはない。
何を贈ったら彼女は喜ぶだろう。
自分の物を買うよりもウキウキする。
何軒もの店を巡った。

喫 茶店で手早く昼食を済ませ、再び物色しに歩き出した時だった。
アクセサリーショップが目に止まった。
リングのいっぱい詰まったショーケースに引き寄せられる。

「そちらはエンゲージリングに最適ですよ」

俺の心を見透かしたかのように女性店員が言う。

エンゲージリング。

その言葉を意識した時、他の何物もプレゼントとして考えられなくなった。

食い入るように何分、何十分もケースを見つめた。
子供の頃に見たCMが頭に浮かぶ。
黒人の少年が雨の中、ショーケースの中のトランペットを見つめるCM。
たしかクレジットカードのCMだったか。

ふと、財布の中のクレジットカードを思い出した。
今はなんのローンも抱えてはいない。

(買えるな、コレ)

0がいくつも並ぶ値札。
その数が増えるほど恵子ちゃんの笑顔が増えるような、そんな馬鹿な錯覚を覚えた。

さっきから何度も声をかけてきた女性店員を手招いた。
嬉々とした顔で店員は駆け寄ってきた。

「サイズのお直しは後日でも結構ですので」

店員に愛想良く見送られ、店を後にした。

右手に提げた品の良い紙袋に何度も目を落としながら、まっすぐ家路についた。

742: :2006/04/29(土) 16:47:46 ID:

家に着くなりバタバタと晩飯を済ませた。
風呂はカラスの行水。
髪を乾かすのもそっちのけ。
小さな化粧箱をテーブルにのせ、なぜか正座。
ゆっくりとリボンを解く。
指紋が消えるほどきれいに洗った指で、震えるほどやさしく指輪をつまんだ。

買ってしまった。

思わずニンマリとした。
渡す時のシチュエーションに思いを巡らし、楽しい妄想に何時間も浸った。

我ながら性急かなと、ちらと思ったりもした。

しかし、あらゆる事どもにいつも必要以上に悩む俺が、
コレを勢いで買った(どれにしようか悩みはしたが)。

その勢いが俺の気持ち。
それだけで十分。

確信と自信が漲った。

743: :2006/04/29(土) 16:48:39 ID:

2005年9月9日 金曜日 午後11時過ぎ。
恵子ちゃんとのデートまで一週間と迫った夜。

夜勤明けのその日、夕方から床に就いていた俺は1本の電話で起こされた。
母からだった。

「恵 子ちゃんが倒れて、病院に運ばれたそうなの」

母の声は落ち着いていた。
それは、俺にも落ち着けと言っているようだった。

「とりあえず守さんからそのことだけ連絡がきたんだけど、状況がよくわからないの。
詳しいことがわかったらすぐ連絡するからね?いい?」

わかってる。わかってる。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。

冷静に自分の言っていることを反復した。

10分。
20分。
30分。

電話はぴくりとも声をあげない。
この間、何をすべきか考えることもなく、自然に身体が動いた。
まるでこれから会社にでも行くように、歯を磨き、髪を整えた。

0時。
あらかじめセットしていた目覚まし時計が鳴った。

それが徒競走の合図でもあるかのように、
俺は携帯と車のカギを握り締め、外に飛び出た。

744: :2006/04/29(土) 16:49:19 ID:

車で故郷に向かうのは初めてのことだった。
なんとか高速道路に乗り、記憶をたどりながらひた走った。

家を出て1時間も経った頃、携帯が鳴った。お父さんだった。

「今、向かってますから」
「そうか。とりあえず、状況を説明するね」

恵子ちゃんが倒れたのは午後9時頃。
風呂 の脱衣所で。
医者の診断はくも膜下出血。
現在、集中治療室で手術中。

お父さんの言葉のひとつひとつが、
まるで新聞の見出し文字のように頭に入ってきた。

「私達も今、病院にいるから」

恵子ちゃんの家から少し離れた市立病院だった。
そこで初めて、病院がどこかも知らずに家を飛び出したのに気づいた。

745: :2006/04/29(土) 16:50:20 ID:

5時間ほどで病院に着いた。
当直の看護師に案内され、集中治療室へと向かう。

治療室の前、長椅子に守さんと浩美さん、お父さんと母が座っていた。
「来てくれてありがとう」と、守さんと浩美さんが力なく、それでも笑顔で言った。

手 術は未だ続いていた。

守さんに話を聞いた。
仕事から帰ってきた時、恵子ちゃんはいたって普通だったそうだ。
それが食後、頭痛を訴えた。
恵子ちゃん自身も、守さんたちも、
それは耳の薬のせいだと気にも留めなかったという。
そして恵子ちゃんは倒れた。

皆、言葉もなく、時が経つのをひたすら待った。

夜が明けた。
沈黙を守っていた治療室の扉が、拍子抜けするほど軽薄な音をたてて開いた。
一斉に立ち上がった俺たちを、出てきた医者が別室へと誘った。

医者の説明には守さんの希望で俺たちも同席した。

手術は無事に済んだ。
やはりくも膜下出血だという。

この時、初めてこの病気に対する知識を得た。
この病気は、脳を取り巻く動脈に“動脈瘤”というコブができ、
それが破裂してしまうことだそうだ。

高血圧だったり、乱れた生活を送っていたり、
疲れやストレスが原因になり得ると医者は言った。
だがそのどれもが恵子ちゃんには該当しなかった。

「遺伝的なものかもしれません」
医者の言葉に守さんが頷いた。
田中の一族には何人も脳の病気を患った人がいるそうだ。

そして最後に医者は言った。
24時間以内に再破裂の恐れがあり、そしてそれはかなりの高確率だと。

再破裂したら、その先は…。

誰もその質問を口に出すことはなかった。

746: :2006/04/29(土) 16:51:03 ID:

集中治療室には誰も入れてもらえなかった。
当然といえば当然の対応なのに、俺は理不尽な怒りを覚えていた。

憔悴しきった4人に仮眠をとることを勧め、俺はひとり治療室の前に残った。
時折り開く扉の隙間から室内を覗ったが、様々な機材が俺と恵子ちゃんを隔 てていた。

こういった場面ではよく「どれほど時が経ったのだろう」などと、
時間の感覚を失くすようだが、そんなことは俺には微塵もなかった。
壁に掛かった時計と共に、冷徹なほど、時を認識し続けた。

747: :2006/04/29(土) 16:51:47 ID:

昼。
ただ時計の針を追うだけの時間に終わりが来た。

何かが起こったのはすぐにわかった。
滅多に開かなかった治療室の扉が、
目まぐるしく、せわしなく、医者や看護師を吸い込んでいく。

知らせを受けた守さんたちが駆けてきた。

30分後。
治療室の扉がやっと俺たちを招き入れてくれた。

物々しい機械に囲まれたベッドに、恵子ちゃんが横たわっていた。

浩美さんが恵子ちゃんの身体に覆い被さった。
その傍らで守さんが立ちすくんだ。
お父さんと母も立ち尽くしていた。

数分後、医者がなにか説明を始めていた。
だがそれは、
俺にとってなんの意味もない説明だった。

恵子ちゃんはもう、笑わない。

748: :2006/04/29(土) 16:52:34 ID:

守さんが看護師と“今後”について相談を始めていた。
母は浩美さんに付き添っていた。
お父さんは俺の肩を抱き、俺は彼に導かれるまま治療室の外に出た。

ふたりで喫煙所に行った。
ジュースの自販機があった。
ジーパンの ポケットを弄り、気づいた。

(あ、サイフ忘れてら)

いいよ、とお父さんがコインを出し、俺にコーヒーを買ってくれた。
熱いコーヒーが腹に流れ落ちていく。
今日初めて口にした食物だった。

「だいじょうぶ?」

タバコを差し出しながらお父さんが言った。
銜えると、すかさず火を点けてくれた。
これも今日初めての喫煙。

旨かった。驚くほど。
そのことに自分の精神状態を推し量った。

「だいじょうぶです」

自分では力強く言ったつもりだった。

749: :2006/04/29(土) 16:53:14 ID:

夕方。
電話で職場の先輩に事情を説明した。
恵子ちゃんとの関係を知る由もないのだが、先輩は気を遣ってくれ、
あらかじめとっていた来週末の休みまで続けて休めるよう、手配をしてくれた。

ほどなくして、
お父さんたちが手配した葬儀屋が、恵子ちゃんを葬儀場へと運んでいった。
俺も車で随伴した。

式場に着くなり、守さんとお父さんは葬儀屋と打ち合わせに入った。
何か手伝いをと申し出たが、守さんもお父さんも「休んでて」と気を遣ってくれた。

何かしてなければ恵子ちゃんのことばかり考えてしまう、
そう思っていたが、頭の中は空っぽだった。
駆けつけた親戚の人たちと交わした言葉も、すべて頭を素通りした。

750: :2006/04/29(土) 16:53:57 ID:

一時間ほど経った頃。
することも、考えることもなく喫煙所に入り浸っていた俺の元に母がやってきた。

「今、湯灌が終わったの。浩美さんが呼んでるから来て」

母に案 内され、湯灌室へと行った。
まるで診察台のような飾り気の無いベッドの傍らに、浩美さんが立っていた。

その顔が見 れない。
ベッドも見れない。

虚空に視線を漂わせていたら、浩美さんが言った。

「健吾君、お願いがあるの」

顔を上げた。

「恵子に、服を着せてあげてほしいの」

751: :2006/04/29(土) 16:54:46 ID:

「はい」

膝に力を入れ、ベッドへと近づいた。
浩美さんが覆っていた白い布をまくった。

起きている時と少しも違わぬ恵子ちゃんが、そこにいた。

胸には肌着をつけ、腰にはサラシが巻かれている。
鼻や耳には脱脂綿が詰められ、なんだか息苦しそうだった。

澄んだ白い肌には一点の生気の欠片すら残っていないはずなのに、
触れれば恥 ずかしがる恵子ちゃんを感じた。

首と肩を右手で支え、半身を起こした。
こんなに軽いものなのか。

俺の顎のすぐ下に、
あの日、束の間の重ねた恵子ちゃんの小さなくちびるがあった。

浩美さんが白い着物を差し出しながら、手伝おうと手を伸ばしてきた。

「ひとりで、 やらせてもらえませんか」

浩美さんは頷いてくれた。

恵 子ちゃんを胸に抱き、虚脱した四肢を着物に通していった。
身体を動かすたびに、きつい薬品の匂いが鼻をかすめる。
大好きだったアリュールの香りは、今はもう残り香すらしない。

手を握った。
肩を抱いた。
顔に触 れた。

着せ終わった恵子ちゃんを、いつまでも抱いていたかった。

浩美さんが「ありがとう」と言った。
その言葉がすべてに終わりを告げているように感じた。

752: :2006/04/29(土) 16:55:39 ID:

棺に入れる遺品を用意するため、浩美さんと母が家に帰った。
今夜は守さんとお父さんと俺が、恵子ちゃんの側にいてあげることになった。

すっかり夜も更けた頃、寝酒にとお父さんが酒を用意してくれた。
守さんも付き合い、三人で淡々と飲んだ。
ほとんど会話もない酒 盛りだったが、酔いなどまわろうはずもなかった。

そろそろ寝 ようかと、ふたりが式場内の寝室に引揚げた。
俺は恵子ちゃんの元へと向かった。

恵子ちゃんが眠っている部屋は、明日の通夜の場ともなる広間だった。

飾られ、煌々と照らされた祭壇の前。
聞こえるはずのない恵子ちゃんの寝息を探し、静かな彼女の寝顔を見続ける。

もう、いいんだぞ。

だが俺の目は期待を裏切り、沈黙していた。

753: :2006/04/29(土) 16:56:26 ID:

翌日。
葬儀の雑用で日中を慌しく過ごし、あっという間に通夜を迎えた。

読経の最中だった。

突然、守さんが泣き出した。
ウオオオとも、ウアアアともつかない、激しい慟哭だった。

俺は守 さんを羨ましく思った。

蚊取り線香のように螺旋状になった線香。
朝までもつというこの線香が寝ずの番を不要としていたが、
それでも 恵子ちゃんの側にいたかったから、俺は線香を点け続けた。

深夜1時をまわった頃だったか。
皆寝静まり、俺ひとりだけとなった祭壇の前に、最年長の従兄・勲夫さんが現れた。

「恵子と付き合ってたんだってね」

酒を酌み交わしながら勲夫さんが言った。

「あの子は、従妹というより妹みたいなもんだったんだ。
だから、健吾君と付き合ってるって聞いた時、俺もすごく嬉しかったんだよ」

祭壇を眺 める勲夫さんの右目から、涙が筋をつくった。

「よかったよ。あいつに…最後に大切な人ができて」

飲んだ酒がそのまま出てきているかのように、
勲夫さんの目は乾くことを忘れていた。

勲夫さんが寝室に引き上げた。
またひとりとなった部屋で、俺はゴロンと寝転んだ。

“男は人前で泣くべきではない”

子供の頃からの親父の教え。

頑なに、なぜ守っているのか。俺の身体は。
そんなにも深く、刻み込まれているというのか。その言葉は。

恵子 ちゃんのために泣くことが、彼女への手向けとなるはずなのに。

泣け。
泣けよ、俺。

754: :2006/04/29(土) 16:57:13 ID:

いつのまに眠っていたのか。
早朝、守さんに起こされた。

「側にいてくれてありがとう」

守さんの言葉が、まるで恵子ちゃんの言葉のように聞こえた。

午後からの葬儀、俺は受付を買って出た。

参列はしたくない。
理由はわからなかったが、ただその一心だった。

守さんは了承してくれた。

勲夫さんから借りたサイズの合わない喪服を身につけ、ふたりで受付に立った。
多くの 人が記帳していき、やがて恵子ちゃんの会社の人たちが訪れた。
その一団の中、ひとりの男性が目についた。

その男性は、止め処なく溢れる涙を必タヒに拭っていた。

彼は…きっと、彼だ。

直感が決めつけた。

覚束ない筆遣いで書かれた彼の名。
もちろん見覚えなどないその名前に視線を落とし、
俺は彼の姿を決して見ようとはしなかった。

755: :2006/04/29(土) 16:58:04 ID:

葬儀が始まった。
静まり返った受付の席にじっと座る。
訪れる者はなかった。

かすかに聞こえる読経に耳をすませながら、俺は恵子ちゃんを思い浮かべた。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。
そうすることによって、無理矢理に感情を呼び起こそうとしていた。

華奢な背中。
屈託のない笑顔。
俺を見上げる瞳。
何かをささやく小さなくちびる。

そして、
別れ際に見た泣き顔。

頭の中を恵子ちゃんが舞う。

だが、
それだけだった。

どうして、守さんや勲夫さんや“彼”のようにできないんだろう?
ひょっとして俺は、まだ現実を認識できていないのか?
動かなくなった彼女に触れただろ?
まだ無意識に我慢してるのか?
それとも、単に冷
たい男なのか?

それとも。それとも。それとも。

「お別れよ。お花を手向けてあげなさい」

母の声が俺を現実に引き戻した。
葬儀は終わっていた。

756: :2006/04/29(土) 16:58:42 ID:

他の参列者はすでに終わっていて、俺と勲夫さんだけとなっていた。
それぞれ恵子ちゃんの左右にまわり、オレンジ色の花をそっと顔の近くに置いた。

じっとその顔を 見つめる。

どんなに生きているかのように化粧が施されていても、
動かず、表情もなく、ただそこにあるだけの存在。

眠そうに目をこすりながら、『おはよう!』と笑いかけてくる、
そんな気配 はもう消え失せていた。

棺に蓋が被せられた。
参列者が一打ち一打ち、一本一本、釘を打ち付けていく。

蓋の小窓が閉じられようとしていた。

そこからのぞくものを決して目に焼き付けないように、俺は視線を逸らした。

757: :2006/04/29(土) 16:59:26 ID:

冷たい、ねずみ色の鉄の蓋。
読経の中、俺の目はそこ一点に釘付けになった。

火葬。

あの向こう側に、恵子ちゃんがいる。

恵子ちゃんが、焼かれている。

恵子ちゃんが、消えていく。

突然のことだった。

奥歯が鳴った。加速する鼓動と連動しているかのように。
足が、一歩、また一歩と前に踏み出した。

俺が憶えているのはここまでだった。

758: :2006/04/29(土) 17:01:27 ID:

開いた目に、母の顔が飛び込んできた。

「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」

泣き顔だった。

周囲に視線をめぐらす。

十畳ほどの 和室。
そこに床が延べられ、俺は寝かされていた。
そこは火葬場の控え室だった。

「大変 だったのよ」

一生懸命、涙を拭いながら、俺の身に起きたことを母が話してくれた。

俺は突然、叫び出したという。
そして意味不明な言葉を発しながら、閉ざされた焼却炉の扉を叩き始めた。
あまりの異常さに驚いたお父さんや従兄たちが、俺の身体を制した。
俺は激しくそれに抗い、そして十数秒後、ヘナヘナと失神してしまったそうだ。

俄かに信じ難い話 だったが、掛け布団をめくって愕然とした。

ズボンを穿いていなかった。
驚き、白黒させた目に、見覚えのない真新しい肌着が映った。
気を失った俺は、失禁していたそうだ。

「本当に…気 でも違ったのかと思ったんだから」

せっかく拭った母の頬がまた濡れていた。

首筋から頭のてっぺんまで寒気が走った。
羞恥心とは違う、得体の知れない感情に戸惑いながら、
俺は母の泣く姿を呆然と見つめた。

759: :2006/04/29(土) 17:03:17 ID:

控え室に明かりが灯り、時刻が夜であることを告げた。
すでに火葬は終わり、ほとんどの参列者が帰っていたが、
お父さんや母、弟妹たち、守さん夫婦、それに勲夫さんが帰らず残っていた。
俺を気遣
ってのことだった。

「だいじょうぶかい?病院に行ったほうがよくないかい?」

皆、口々にそう言って心配してくれたが、別段、身体に異常は感じなかった。
それよりも気になっていたことを尋ねた。

「あの…恵子ちゃんは?」

勲夫さんが俯き加減に目配せをした。

部屋の片隅、即席の祭壇に、
冗談とも思えるくらい小さくなった恵子ちゃんがいた。

母の用意してくれたジャージに着替え、恵子ちゃんの前に正座した。

線香に火をつける。
静かに手を合わせ、目を閉じた。

一切の静寂が、恵子ちゃんと俺を包んだ。

語りかけるべき言葉も思い浮かばず、自分に苛立つ時間だけが過ぎた。
俺は断念し、目を開けた。

目 の前に鎮座する、白く、小さな四角い箱。

君は、そこにいるの?

しゃべるはずもない箱に、心の中で問いかけた。

760: :2006/04/29(土) 17:04:21 ID:

翌日、俺は熱を出して寝込んでしまった。
母は会社を休み、看病してくれた。

「ゆっくり休んでいきなさい」

母の言葉がありがたかった。
今、ひとりになるのは、辛い。怖い。

熱は三日間続いたが、四日目の朝にはすっかり復調した。

「もうだいじょうぶだから」

心配そうにしている母を会社に送り出した。

まだまだ日差しの強い縁側に座り、ぼーっと外の空気に触れた。

昼。
用意されていたお粥を腹に流し込んでいたら、電話がかかってきた。
守さんだった。

「身体の調子はどお?」

寝込んでいたこの 三日間、守さんは毎日電話をくれたと、母に聞いていた。

「 すみません、ご心配をおかけして。もう、だいじょうぶです」
「そうか…よかった」

本来なら俺のほうが守さんたちを気にかけなければいけないのに…。
ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが胸を締め付けた。

「健吾君、いつ横浜に帰るの?」
「休みは日曜日 までなので…明日か明後日には帰ろうかと思ってます」
「そうか。なら帰る時でかまわないから、ウチに寄ってもらってもいいかな?」
「ええ、かまいませんけど…」
「渡
したいものがあるんだ」
「なんです?」
「恵子の手紙を見つけたんだ。健吾君宛ての」

手紙…?
恵子 ちゃんからの?

「あの…今からお邪魔してもいいですか?」
「別にかまわないけど…だいじょうぶなのかい?無理しちゃダメだよ?」

守さんの気遣いを他所に、俺はただちに家を出た。
気持ちが急いて仕方ない。
それでも普段よりゆっくりと運転するよう心がけ、
一時間半ほどかけて守さんの家に着いた。

761: :2006/04/29(土) 17:05:16 ID:

浩美さんも在宅していて、ふたりで俺を迎えてくれた。
やつれた顔で明るく振舞うふたりは痛々しかった。
俺も無理矢理、笑顔を作った。

恵子ちゃんの元へ案内された。
型通りに線香を手向け、手を合わせた。
相変わらず、箱は何も語らなかった。

居間に通され、茶を出された。
それに口をつけるのもそこそこに、守さんに目で促す。
守さんは黙って頷き、件の手紙を差し出した。

桜色の小さな封筒。
表に“健吾君へ”という文字。

俯きながら浩 美さんが言った。

「今日ね、恵子の部屋の整理、始めようと思ったの。
でも…途中でやめちゃった。
あの子の物を触ってたら、まだそのままにしておきたくなって…」

当然だろう。
遺品の整理をすることが、心の整理につながるとは限らない。
いや、心の整理がつかないからこそ、遺品も整理できないのかもしれない。

「今はまだ …そのままでいいんじゃないですか」
「そうよね。まだ…いいよね」

顔を上げた浩美さんは、許しを得たかのようにほっとした顔をしていた。

762: :2006/04/29(土) 17:06:11 ID:

「私らのことは気にしないで。早く帰って、読んであげて」

俺の気持ちを察してくれたのか、守さんがやさしく言ってくれた。
俺は深く頭を下げ、その場を辞去した。

車の運転がもどかしい。
早く。早く。
しかし俺の邪魔をするように道はどんどん混み始め、
とうとう高速のインターの手前で渋滞にハマった。

タバコをくわえ、イライラしながらハンドルを何度も叩く。

もう、その辺に車を止めてしまおうか。
なにも家に帰ってからじゃなくてもいいんだ。
そう思い始めた時、バックミラーに遠くの山々が映った。

(そうだ。あそこに行こう)

それはバーベキューの時に行った、恵子ちゃんのお気に入りの場所。
俺はすぐさま渋滞の列から抜け出し、Uターンした。

763: :2006/04/29(土) 17:07:01 ID:

川原の土手に車を止め、車外へと躍り出る。
封筒を握り締め、あの日恵子ちゃんと歩いた森の小道を駆けた。
緑は数瞬で流れ去り、あっという間にあの滝が目に飛び込んできた。

乱れた息を整えながら、あの時ふたりで座った岩に腰を下ろす。

と、背後に人の気配を感じ振り向いた。
今日は先客がいたようだ。
小学生くらいの男の子がふたり。
ほんの少しの間、彼らは俺を見つめ、
やがて興味を
失ったのか、また遊びに戻っていった。

封筒に視線を落とす。

一呼吸。二呼吸。そして最後にもう一呼吸。
そうして心を落ち着け、封筒を開封した。

ふわっと、アリュールの香りが鼻先を漂った。
封筒と同じ桜色の便箋が2枚。
そこには俺が愛した、しなやかで美しい文字が詰まっていた。

764: :2006/04/29(土) 17:10:00 ID:

『健吾君へ
今度のデートの時に渡そうと、この手紙を書いています。
いつもおちゃらけてばっかりいる私だから、
こんな手紙を書くと健吾君はきっと笑うだろうけれど、今日はガマンしてね。
私の素直な気持ちです。

健吾君、ありがとう。

いつも笑わせてくれて。
いつも話を聞いてくれて。
いつも励ましてくれて。
いつも心配してくれて。
いつも素敵な言葉をくれて。
いつも、私を幸せな気分にしてくれて。

ありがとう。

でも私は、その何分の1でもお返しできていますか?

最近思ったの。
私は健吾君からもらうばっかりで、
何 ひとつお返しできていないんじゃないかって。

つき合う前の、もうずっと昔のこと。健吾君は言ったね。
「俺は親戚とか少ないからみんなと親戚になれてうれしい」って。
そしてその言葉どおり、
健吾君は今までいつも、私やイトコ、親戚たちに優しく接してくれたね。
私たちを、大事にしてくれたね。

私はそれがすごくうれしかったけれど、反面、こう思ったの。
健吾君はずっと、さみしかったんじゃないかって。

健吾君はいつも堂々としていて、言葉も力強くて…私はそんな健吾君を
いつも“すごいなぁ”って思いながら見てきました。
でもいつだったか健吾君がご両親の話をしたとき、いつもと違う健吾君を感じたの。
健吾君が、泣いてるような気がしたの。

健吾君はあまり詳しくは話してくれなかったけれど、
きっと辛 い体験をしたんだね。

そのとき私は何も言えなかった。何もできなかった。
はじめて健吾君の心に近づけた気がしたのに、どうしたらいいかわからなかった。

私が勝手に感じたことだし、気のせいかもしれないけれど、
でもこれからは、さみしいと感じたとき思い出して。

私はいつでも、健吾君の横にいます。

私はずっと、健吾君の手をにぎっています。

健吾君
愛してます

2005.8.21  恵子 』

恵 子ちゃんからの、最初で最後のラブレターだった。

765: :2006/04/29(土) 17:10:47 ID:

ドボン、ドボンと、先程の子供たちが滝壺に飛び込んでいる。
大きな水しぶき。楽しげな嬌声。入れ代わり、立ち代わり。

咄嗟に口を手で押さえた。
そんなことをせずとも、彼らには聞こえなかったかもしれない 。

俺は泣いた。

766: :2006/04/29(土) 17:11:46 ID:

あれから二ヶ月。
俺は俺の日常に戻った。

時折、無性に腹が立つ。
君という大事な要素を欠いているのに、この世界は変わらず機能しているから。

いつもと同じ朝。
いつもと同じ 夜。

まるで君を忘れてしまったかのような世界。

でも俺は、この世界のそこかしこで、君を感じている。

職場に君と同じ ロングヘアの女の子がいる。
その後姿が君を思わせるから、見るたびいつも視線をはずしてしまうけれど、
ついついもう一度見てしまう。

通勤電車でアリュールの香りがした。
香りの主を探してキョロキョロしたんだけど見つからなかった。
でも、それでもあきらめられなくて、電車を降りるのをためらった。

本屋に行くと必ず、君からもらった本を探す。
そして見つけては安心し、指でそっとなぞる。
見 つからないと落ち着かなくて、ただそれだけのために別の本屋に行ってしまう。

いなくなった 君に、ずっと恋をしている。

『早く結婚してくれ』と、君は言ったね。

見たかったなぁ。
あの時君は、どんな顔をして、その言葉を言ったんだい?

毎日のように俺は、その顔を想像してる。
そしていつのまにかその顔が、俺が思い出す君の顔になってしまった。

君の願いは、俺の願いでした。

恵子ちゃん。

さよなら。

767: :2006/04/29(土) 17:12:43 ID:

以上です。

まずはこのような駄文・長文にお付き合いくださったみなさんに
あらためて御礼を申し上げます。
そして重ねて、
長期に渡りスレッドを放置した件についてお詫び申し上げます。
本当にすみません。

このスレッド を立てた当時、私は精神的にも肉体的にも病んでいました。
何をしていても考えることは彼女のことばかりで、
食事も睡眠も満足にとっていませんでした。

そして心身共に日に日に弱っていく中、この2チャンネルに出会いました。
お恥ずかしい話、コンピュータ業界に身を置きながら
この掲示板について全くの無知だった私は、とあるスレッドに書かれていた悩みと、
それに対する多くの意見・アドバイス・励ましを拝見し、とても感動しました。
そこには真摯に相談を受ける人々と、
それによって悩みから解放された人々がいました。

768: :2006/04/29(土) 17:13:39 ID:

私はこの掲示板に縋ることで楽になれるのでは…と考えました。
おかしな話ですが、家族や身近にいる友人よりも、
モニターの向こう側にいる赤の他人に救いを求めたのです。

そして私は書き始めました。
仕事 をしていても、寝ても覚めても、このスレッドのことばかり考えました。
ある意味、捌け口として成功していたと思えます。
文章を書くために彼女との出来事を思い出していく作業―
それは一見矛盾しているようですが、機械的なその作業に熱中することにより、
確実に悲しみや痛みが和らいでいったのです。
そして何よりみなさんからの感想、アドバイス、激励、叱咤その他諸々が
ますます私をこのスレッドに没入させていきました。

769: :2006/04/29(土) 17:14:21 ID:

大との件を書き終えた時、身体が悲鳴を上げました。
長らく忘れていた痛みが胸を襲いました。
しかし私
はそれを軽視し、「あと少しだから」と書く手を緩めず、
会社に行くこと以外の全ての時間を(それこそ食事や睡眠をおざなりにしてでも)
文章作りに費やすようになりました。

三、四日ほど経った頃。あの日は夜勤明けでした。
家に着くなり書き始め、夕方にとうとう書き終えました。(今回アップした分です )
書き上げたことへの安堵からか、一気に疲労感に向かってきた私は、
スレッドにアップする前に一眠りすることにし、ベッドに雪崩れ込みました。
そして私
は、自分の身体の限界を知りました。

夜半過ぎ、激しい動悸に目覚めました。
かつてないほどの痛みに危険を感じた私は救急車を呼びました。
そして駆けつけた救急隊員の担架に揺られながら、私は気を失いました。

770: :2006/04/29(土) 17:15:10 ID:

目覚めると病院のICUにいました。
驚いたことに、倒れた晩から丸二日が経過していました。
しかも二度の手術を経た後でした。

担当医の説明に更に驚きました。
私の心臓は、数年前に倒れた時よりも格段に重い病にかかっていたのです。
その年の 春に受診した健康診断ではなんの問題もなかったのに…。
担当医の問診に対し、この二ヶ月の私の生活について打ち明けました。
担当医は合点がいったという表情で私に言いました。
精神的な要因が強いですね、と。
なんとたった二ヶ月の間に、私の心は私の身体をコロす寸前まで追い詰めていました。

771: :2006/04/29(土) 17:15:51 ID:

精神が肉体に及ぼす作用というものを直に体験し、さすがに私も驚きましたが、
恐怖はまったくありませんでした。
それどころか「もうどうでもいいや」という、捨て鉢な気分を自覚しました。
ようやく2チャンネルで手に入れかけていた安らぎや解放感も、
この時は
霧散していました。

私の病気は決して難病というわけではなかったのですが、
あと二度ほど手術をする必要があると担当医は言いました。
そしてそれに耐えられるだけの体力と気力も必要だと。

両方ともその時の私には無いものでしたが、
それを取り戻す気にもなれませんでした。

772: :2006/04/29(土) 17:16:38 ID:

入院生活が始まり、母が泊り込みで付き添ってくれました。
母は常に私を気遣い、励ましてくれましたが、私の無気力さは変わりませんでした。
父やお父さん、弟妹たち、守さんや親戚の人たち、友人や同僚、
様々な人々が私の
病室を訪れ、みな口々に私を慰めてくれましたが、
やはり私の心に変化はありませんでした。
そしてもはや自力で歩けなくなるほど衰弱した私は、
この先に訪れるであろう己の末路をただひたすらに待ちました。

そして入院生活も一ヶ月になろうとしていた去年の暮れ、
心配した担当医と家族の勧めで、私はカウンセラーの治療を受けることになりました。

773: :2006/04/29(土) 17:17:13 ID:

そのカウンセラーは私と同い年の女性でした。
嫌々、カウンセラー室を訪れた私は、
初日から反抗的な態度で彼女の診断を受けました。
(どうせ型
通りの診断だろう)、(俺の気持ちなどわかるものか)、と。

しかし返ってきた彼女の反応は実に冷静で、ともすれば冷淡でした。
正直な話、これがプロというものかと私は感心しました。
慰めや励ましの言葉に埋もれていた私にとって、彼女の態度は新鮮でした。

774: :2006/04/29(土) 17:17:45 ID:

感心したとはいえ、私は反抗的な態度を改めませんでした。
悪態をついたり無視したり。
しかし悉く、彼女には受け流されました。

一週間、二週間とそれが続いた時、私の心に変化が現れました。
それまで無気力で起伏のなかった心の中に、イライラする気持ちが生まれていました。
それは彼女に対して向けられていたものでした。
いつも表情を変えずに私の相手をしている彼女を、なんとか困らせてやりたい。
あのすまし顔を、困った顔に変えてやりたい。
非常にサディスティックで、暴力的な感情でしたが、
その一心が私の糧になっていたのです。
歪んだ感情に支えられ、
私は毎日、カウンセラー室に車椅子を走らせるようになりました。

775: :2006/04/29(土) 17:18:36 ID:

とはいえ、病院食もあまり口にせず、
栄養のほとんどを点滴でまかなっていた私の身体にも限界が来ていました。
1月下旬、私は再び昏睡状態になりました。

三日後、私は目覚めました。
ICUのベッドの上、様々なチューブを身体に纏いながら、私は
(あーあ、また生き延びてら、俺)
と、生に感
謝することなく己の悪運を恨めしく思っていました。

それから更に四日後、個室に戻った私の元にカウンセラーの先生がやってきました。
空元気を振り絞って相も変わらずに毒づく私をにらみ、彼女は一言、
「馬鹿じゃないの?甘えるのもいい加減にしたら?」
そう言い 捨て、病室を出て行きました。

唖然としました。
彼女の目には涙が溜まっていました。

776: :2006/04/29(土) 17:19:14 ID:

翌日、私はカウンセラー室を訪れました。
さすがに悪態などつけようはずもなく、
恐る恐る彼女の顔色を伺いながら話しかけました。
彼女は私の顔など見ず、ただ生返事をするだけ。
私は居た堪
れなくなり、この日は早々に退散しました。

その後も毎日、彼女の元に通いました。
あの時の涙が気になっていた私は、
まるで彼女の機嫌をとるかのようにカウンセリングに身を入れました。

777: :2006/04/29(土) 17:19:48 ID:

10日ほども経った頃には彼女の態度もようやく軟化し、
以前よりも穏やかに会話ができるようになりました。

まだ気持ちは前向きとは言い難かったのですが、
私は彼女に、親身になってくれていることへのお礼を言いました。
「仕事だから」と言いつつも、彼女は照れ臭そうに笑っていました。
お互いに打ち解けた気がした私は、彼女にあの時の涙の意味を尋ねました。

778: :2006/04/29(土) 17:20:28 ID:

単に親身になってくれていたから泣いたのだ…そう思っていました。
しかし彼女が訥々と語ってくれた話は、そんな単純なものではありませんでした。

彼女は旦那さんを亡くしていました。
同じ精神治療の現場に身を置いていた旦那さんは、
職場では尊敬すべき師であり、家庭では優しく申し分のない夫だったそうです。
その頃の二
人は都内の大病院に勤務していたそうで、
きっと二人の前途は、明るく希望に満ちていたことでしょう。

しかし6年前、旦那さんを病魔が襲いました。
私と同じ心臓の病で、私のそれよりも数倍重いものだったそうです。
そして皮肉なことに、それと前後して彼女の妊娠も判明しました。

779: :2006/04/29(土) 17:21:01 ID:

新しく生まれてくる命のためにもがんばって、と
彼女は病床の旦那さんを励ましました。
しかし元々エリート意識の強かった旦那さんは、
病気が自分のキャリアに傷をつけたとひどく落胆し、自暴自棄になったそうです。
担当医ばかりか、妻である自分の言うことも聞き入れなくなった旦那さんは

日毎に衰弱し、わずか半年足らずの闘病で亡くなられたということです。

彼女の言った言葉が今でも耳に残っています。
「彼は闘病なんてしなかった。あれは自害のようなもの」

780: :2006/04/29(土) 17:21:35 ID:

全てが終わった後、お子さんが生まれました。男の子でした。
以来、彼女は息子さんと二人で生きてきたそうです。

私の膝に手を乗せ、彼女は最後にこう言いました。
「心を持っているのはあなたひとりだけじゃないの。あなたの周りには、あなたの心を“思いやる心”がいっぱいあるのよ 」

781: :2006/04/29(土) 17:22:07 ID:

翌朝、私は入院してから初めて、食事を残さず平らげました。
すっかり小さくなった胃袋には拷問のようでしたが、なんとか詰め込みました。

病気を治そうと思いました。
前進 しようと思いました。

他人の悲話を聴いて自分を見つめ直す…陳腐なメロドラマのような話です。
でも私が、今の前向きな気持ちを抱く第一歩でした。

782: :2006/04/29(土) 17:22:42 ID:

それからは順調に体力も戻っていきました。
時折、思い出して瞼を晴らしたこともありましたが、
無理矢理にでも顔を上げ続けました。

そして三月末、体力的にも精神的にも万全となった私は、3回目の手術に臨みました。
手術前の面会にはたくさんの人々が私の病室を訪れました。
家族や親戚、友人、同僚、カウンセラーの先生までもが来てくれ、私は
「大袈裟だなぁ、みんな(笑)」
と笑いながら手術室に入ったおぼえがあります。

…しかし、後から知ったのですが、決して大袈裟ではなかったのです。
私が無気力でいた頃、母は幾度となく担当医に言われていたそうです。
「手術日が延びれば延びるほど、成功率も下がっていきます」と。
そして手術前夜に母が聞かされていた成功率は50%をきっていたそうです。

きっと面会に来ていた誰もが(見納めだな、こりゃ)と思っていたのでしょう(笑)
…私も今だからこそ笑えるのですが。

783: :2006/04/29(土) 17:23:16 ID:

手術は8時間にも渡りましたが、私は無事に目覚めることができました。
術後、ICUには父と母とお父さんだけが通されました。
母が言いました。
「扉の向こうにはみんながまだ残ってくれてるの」と。

うれしかったです。泣きました。

784: :2006/04/29(土) 17:24:04 ID:

入院当初に担当医から言われていたとおり、
あと一回、最後の手術を受けなくてはいけませんでした。
しかもそれまでは薬の投与が続くため、必然的に体力も落ちてしまうとのこと。
担当医は厳しく、私に体調管理の徹底を命じましたが、
私は素直に言いつけを守る気になれていました。

それからの日々は病院側の管理に従い、また自己管理にも努めました。
体力を完璧なまでに維持し、車椅子の世話にもならなくなりました。
一見すると健康 体かと思えるほど、血色も良くなりました。
カウンセラー室にも毎日通い、精神状態も良好でした。

ある時、カウンセラーの先生が私に質問しました。
「手術が終わった時、どんな気持ちだった?」
私はありのまま答えました。
「 うれしくて、怖かったです」
「怖かった?」
「後から、実は成功率が低かったって聞かされて…。
もしかしたら俺はタヒんでたかもしれないんだって思ったら、震えました」
「…そっか。うん。
もう…この部屋に来てもらわなくてもいいかもしれないなぁ」
「…もうカウンセリングの必要がないってことですか?」
「そう。怖かったってことは、生きてるのがうれしいってことだからね」

その言葉と彼女の笑顔がとてもうれしかったです。

785: :2006/04/29(土) 17:24:49 ID:

4月の中頃。
このまま順調に行けば4月末には最後の手術をすると、担当医が言いました。
そして前回よりも成功率は高くなるだろうとも。
担当医は「まず問題ないですね」と満面の笑顔でした。

その頃、私 は気にかかっていたことがありました。
それはまさに今、開催されているだろう恵子ちゃんの書展のことでした。
守さんから聞いていた会期は4月一杯。
手術が成功しても退院まではまだまだかかることでしょう。到底、間に合いません
。
恵子ちゃんの作品は入選ばかりか、
特別な賞まで獲得していました(賞の名前は失念しました)。
そのため5月以降は全国を盥回しにされます。
この機会を逃すといつ
会えるのか見当がつきません。

ダメモトで担当医に懇願しました。二日、外泊許可をくださいと。
一日は書展のために、もう一日は恵子ちゃんの墓参りのためでした。

当然ながら担当医は難色を示しました。
ちょっと考えさせてと、すぐに結論はもらえませんでした 。

786: :2006/04/29(土) 17:25:43 ID:

二日後、担当医が許可をくれました。

ただし条件付き。
・外泊は一日だけ。横浜の自宅でのみ。
・外出してもいいが長距離はダメ。
・外出時は病 院側の付き添い(看護士さんとカウンセラーの先生)がつく。
・その他、食事制限や細かなことetc.etc.

一日だけかとちょっと不満に思いましたが、
つい最近までタヒにそうだった男なのですから文句は言えません。
恵子 ちゃんには申し訳ないけれど、墓参りは退院してからということにしました。

そしてそれからはますますリハビリにも熱が入りました。

787: :2006/04/29(土) 17:30:28 ID:

そして今、私は横浜の自宅にいます。
付き添いの母が外出したのでこれ幸いとばかりにこの文章を書いています。
(医者からパソコンは禁止されているのです。母は夜まで戻らない予定ですが、アップし続けるうちにこんな時間になってしまいました。大量過ぎですね。 親の目を盗んで悪さをしている小学生のように、今はドキドキしてます(笑))

入院中、何度もこのスレッドのことを思い出しました。
正直な話、スレッドを放置してみなさんに迷惑をかけたということよりも、
自分にとって大切な存在をほったらかしにしている…、
そんな思
いが強かったです(すみません)。

母が外出するとすぐにパソコンを起動しました。
そして先程この スレッドを発見し、とてもうれしく思いました。
過去にいただいたみなさんからのコメントを読み返し、涙がでました。
入院前のあの当時もみなさんのコメントに救われてきましたが、
今はまた違った、もっと温かな感情が胸をしめています。

788: :2006/04/29(土) 17:31:42 ID:

ただ削除依頼が出されていたのはショックでした(あれは私ではありません)。
そこまで嫌悪されていたのか…と、正直、続きをアップするのを躊躇いました。
しかし…
どうかお許しいただきたい。
「最後まで書き上げたい」という私のくだらない願いを、どうか許してください。

また、私の文章が創作であるとお思いの方々もいらっしゃいました。
ライター だった時の癖でついつい小説然とした文体となり、
また内容も三文小説にも劣るものですから、そう思われるのも当然でしょう。
それに対し、創作ではないと証明する術は私にはありません。
勝手な物言いですが、みなさんのご判断に委ねさせていただきたいと思います。

それと、私の文章に似たスレッドがあるとおっしゃった方がおられましたが、
私が2チャンネルに立てたスレッドはこれひとつです。
これまた証明する術はありませんが…。

789: :2006/04/29(土) 17:33:01 ID:

みなさんそれぞれのお考えでこのスレッドを存続させてくれたのだと思います。
純粋に待っていてくださった方。批判として保管してくださっていた方。
しかし、そのどなたにも感謝を申し上げます。
みなさんのおかげで、私は最後のけじめをつけることができました。

明日、私は恵子ちゃんの作品を観に行きます。
彼女の最後の作品です。
看護士さんとカウンセラーの先生(と、その息子さん)が付き添ってくれますが、
きっと私は、憚ることなく泣いてしまうでしょう。
しかし明日は
、明日だけは勘弁してもらおうと思います。
それで最後にしますので。

明日の夜には病院に戻ります。
私がこのスレッドに来ることももうないでしょう。
退院 にはどれくらいかかるのか…それは私次第ですが、
恐らく、その時にはこのスレッドはなくなっていることと思います。
みなさん、本当にありがとうございました。

長々と…本当に長々と失礼いたしました。さようなら。

792: :2006/04/30(日) 16:12:27 ID:

さようなら?何言ってんの?元気になったらこのスレに戻ってきて報告しなよ!
793: :2006/04/30(日) 19:23:41 ID:

作品見てきたのかなぁ?
今日は新しい旅立ちの日。
ガンガッテこのスレに帰ってこいや!!
798: :2006/05/01(月) 07:19:18 ID:

こんなスレがあるなんて知らなかった…
全部読むのに2時間近くかかったよ…

>>1
ゆっくり体治してまた何か書き込めよー

801: :2006/05/01(月) 14:45:15 ID:

朝から、今までかかりました。

病に打ち勝つことを祈ってます。

805: :2006/05/02(火) 09:45:55 ID:

感動しました。私は今、愛する人がいるのですが、その人を失うことを想像するだけで心が痛くなります。手術成功を祈ってます。成功したおりにはご報告をお待ちしています。
807: :2006/05/03(水) 01:04:04 ID:

5ヶ月ずっと書き込み待ってたんだ。
退院するまで待ってるから、恵子さんの作品の感想と、
墓参りの報告、また書き込んでくれよ!

手術の成功、祈ってるよ!

790: :2006/04/29(土) 17:37:06 ID:

大変でしたね・・・
戻っていらっしゃるまでこのスレ多分ありますよw

皆の心の中に・・・

コメント

この記事へのコメントはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

PICK UP